すぐにも女を自分の手に取り返す術《すべ》はないものかと思いつづけていた。
「それで今本人はどうしています? 私に会おうともいいませんか」私は彼女に面と向って怨みのたけを言いたかった。
「ええ、それで姉さん今ここへ来やはります。……お母はんには、あんたはんは、もうとうにここからお帰りやしたことにして」と、入口の方に気を配りながら、越前屋の主人はその前に坐っている婆さんにも聞えぬように、そうっと私の耳のところに口を持ってきて押っつけるようにしながら「それからなお姉さんがこんなことをいうてはりました。――えらい失礼やけど、もしまたあんたはんがお小遣いでもお入用どしたら私の手を経て姉さんの方からどうともしますよって、そのこともちょっというといてくれ言うてはりました」
私は、それをじいっと聞いていて、越前屋の主人の口から静かに吐き出す温かい息が軟《やわら》かに耳朶《みみたぶ》を撫《な》でるように触れるごとに、それが彼女自身の温かい口から洩れてくる優しい柔かい息のように感じられて、身体が、まるで甘い恋の電流に触れたように、ぞくぞくとした。
主人が口を離すのを待って、私は、嬉しさに堪えかねた気持で、
「ああ、そうですか。そんなことをもいいましたか。……いやしかし、それだけ聞けば満足です。私ももう何年もの間|彼女《あれ》のことばかり思い続けて何をするにも手につかずお話のならぬ不自由な目をして来ましたが、まさか私一人の用くらいに事は欠きませんから、そんな心配は無用にしてくれ、それよりも一日も早く自分の決心をしてくれるようにいっておいてください」私はもう少しも毒のない、優しい心に帰りながら静かにそういった。
主人は私のいうことを聞きながら、外の路次の方に気がかかるように、
「姉さんもう来やはりますやろ」といっているところへ、入口に立っていた越前屋の若い女房はそちらから、
「ああ来やはりました」と低声《こごえ》で知らせる。
主人はそれで、表の間の方に立っていって出迎えながらわざと声を大きくして隣りの母親に聞えるように、
「お母はんえらい済んまへんが、どうぞ、今お話しましたとおりですよって、ちょっと姉さんをお貸しやしとくれやす。……あのおかたはもうさっき帰らはりましたよって、どうぞ安心してとくれやす」といって、そこへ、おずおず入ってきた隣りの女をやさしくいたわり招じ入れた。
六
「さあ、姉さん、ずっとこちらへお入りやしとくれやす。ほかに遠慮するような人だれもいいしまへんよって」
といいつつ、主人は母親が今まで敷いていた蒲団を裏返して、長火鉢に近いところに直した。主人の背後《うしろ》に身を隠すようにしながら、庭から茶の間に入ってきた彼女は、隅の暗いところに立ち竦《すく》んだまま、へえへえと温順に会釈《えしゃく》ばかりして、いつまでもそこに居わずろうている風情《ふぜい》である。
婆さんもともに声をかけて、
「姉さん、なんもそないに遠慮せんかてよろしい。さあさあそなとこにおらんとずっとこちらへお上りやす。きつう寒うおす」
彼女が、そうしたまま、いつまでも家の人たちに口をきかしているのを傍にいて見かねながら、私もそちらを振り顧って、
「皆さんがいうて下されるのだから早うこちらへ上がったがいいだろう」と、声をかけながら、そこに佇《たたず》んだ容姿《すがた》をちらと見ると、蒼ざめた頬のあたりに銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》の毛が悩ましく垂《た》れかかって、赤く泣いた眼がしおしおとして潤《うる》んでいる。
女はなおも面羞《おもはゆ》そうな様子をしながら、
「わたし、もう、ここで失礼いたします」と、口の中でいって、上がろうとせぬ。
主人も婆さんも、声をそろえて、
「何おいやす、姉さん。そんなとこにいられしまへん。さあさあ」と急いだ。
女は、「へえ」と腰をこごめながら、それでやっと、「ほんならここからどうぞごめんやす」と沈み沈み言って、上り框に躙《にじ》り上がって、茶の間の板の間のところに小さくなって坐った。主人はそれを咎《とが》めるように、
「姉さん寒いのに、そんなとこにおられしまへんたら、さあこちらへおいでやして、兄さんの傍に来て火鉢におあたりやす」と手を取らんばかりに世話を焼いた。
女は幾たびもいくたびも催促せられて、まだ泣きじゃくりをしながら、ようよう座蒲団の上まで寄ってきた。
主人は、合壁の隣りに居残っている母親に気を兼ねて、声をひそめ、二人の仲を改めて取りなすような口を利《き》いて、
「さあ、姉さん、ここは私の内どす。もう誰に遠慮もいりまへんよって、兄さんと心置きのう話したい思うておいでやしたことをお話しやす」
そういったが、彼女は、何といわれても、ただ「へえ、へえ」と、低い声でいうのみで、憂わしそうに湿っている
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