小旅行に出かけていった。そっちの方は、もう長い間行ってみたいと思っていたところであったが、この四、五年の間私の頭の中は全部その女のために占領せられて、ほかのことは何もかも後まわしにしておいた。事実のこと、私は、その女を自分のものにしなければ、何も欲しくないと思っていたのであった。名誉も財宝もいらぬ、ただ、あの、漆のように真黒い、大きな沈んだ瞳《ひとみ》、おとなしそうな顔、白沙青松のごとき、ばらりとした眉毛、ふっくりと張った鬢《びん》の毛、すらりとした容姿《すがた》。あらゆる、自分の心を引き着ける、そんな美しい部分を綜合的《そうごうてき》に持っている生き物を自分の所有《もの》にしてしまわなければ、身も世もありはせぬ。随分身体を悪くするまでそんなに思いつめてこの数年を、まるで熱病にでも罹《かか》っているごとき状態で過ぎて来たのであった。
それゆえ私が、美しい自然や古い美術の宝庫である大和の方の晩春の中に入って行ったのは、ちょうどウェルテルが悲しく傷《いた》んだ心を美しい自然の懐《ふところ》に抱かれて慰めようとしたと同じようなものであった。
そして一と月近く大和の方の小旅行をして再び京都
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