あ行きましょう」

     五

 私は、それから母親の先に立ってゆく方へ後から蹤《つ》いて行った。もう夜は十二時もとうに過ぎているので、ことに東山の畔《ほとり》のこととて人の足音もふっつりと絶えていたが、蒼白《あおじろ》く靄《もや》の立ちこめた空には、ちょうど十六、七日ばかりの月が明るく照らして、頭を仰《あお》のけて眺《なが》めると、そのまわりに暖かそうな月暈《おかさ》が銀を燻《いぶ》したように霞《かす》んで見えている。そんなに遅く外を歩いていて少しも寒くなく、何とも言えない好い心地の夜である。私は母親と肩を並べるように懐かしく傍に寄り添いながら、
「おかあはん、ほんとうにお久しぶりでした。こうと、いつお目にかかったきり会いませんでしたか」といって私は過ぎたことを何かと思い浮べてみた。
 はじめて女を知った当座、自家《うち》はどこ、親たちはどうしている、兄弟はあるのかなどと訊《き》いても、だれでも、人をよく見たうえでなければ容易に実のことをいうものではないが、追い追い親しむにつれて、親は、六十に近い母が今は一人あるきり、兄弟も多勢あったが、みんな子供のうちに死んで、たった一人大きくなるまでは残っていた弟が、それも去年二十歳で亡《な》くなった。それがために母親はいうまでもなく自分までも、今日ではこの世に楽しみというものが少しもなくなったくらいに力を落している。叔父叔母《おじおば》といっても、いずれも母方の親類で、しかも母親とは腹の異《ちが》った兄弟ばかり。父親の親類というのはどこにもなく、生命《いのち》の綱とも杖《つえ》とも柱とも頼んでいた弟に死なれてからは本当の母ひとり娘ひとりのたよりない境涯《きょうがい》であった。彼女は、ほかのことはあまり言わなかったが、弟のことばかりは腹から忘れられないと思われて、懐かしそうによく話して聞かせた。私は、そんな身の上を聴《き》くと、すぐさま自分の思いやりの性癖から「天の網島」の小春が「私ひとりを頼みの母《かあ》さん、南辺《みなみへん》に賃仕事して裏家住み。死んだあとでは袖乞非人《そでごいひにん》の餓《う》え死にをなされようかと、それのみ悲しさ」とかこち嘆くところを思い合わせて、いとさらにその女が可憐《かれん》な者に思えたのであった。
 もとは父親の生きている時分から上京《かみぎょう》の方に住んでいたが、廊《くるわ》に奉公するようになって母親も一緒に近いところに越してきて、祇園町の片ほとりの路次裏に侘《わび》しい住いをしていた。そこへ訪《たず》ねていって初めて母親に会った。そして後々のことまで話した。彼女はこんな女にどうしてあんな鶴《つる》のような娘が出来たかと思われる、むくつけな婆さんであったが、それでも話の様子には根からの廊者でない質朴《しつぼく》のところがあって、
「ほんまの親一人子ひとりの頼《たよ》りない身どすさかい、どうぞよろしゅうお願いいたします」といって、悲しい鼻にかかる声で、今のように零落せぬ、まだ一家の困らなかった時分のことなどを愚痴まじりに話してきかせた。その話によると、彼女の家はもと同じ京都でも府下の南山城《みなみやましろ》の大河原に近い鷲峯山下《しゅほうさんか》の山の中にあったのであるが、二、三十年前に父親が京都へ移ってきた。故郷の山の中には田畑や山林などを相当に所持していたが随分昔のことで、その保管を頼んでいた人間が借金の抵当に入れてすっかり取られてなくしてしまった。
「あれだけの物があればこの子にこない卑しい商売をさせんかて、あんたはん結構にしていられますのや」母親は心細い声でそんな古いことまでいっていた。
 女もそこに坐って、黙って母親と私との話を聴いていたが、大きな黒い眼がひとりでに大きくなって充血するとともに玉のような露が潤《うる》んだ。
「もう古いことどすやろ」と、彼女はただ一口おとなしく言って、母親の話もそれきりになった。
 その後夏の終りごろまでも京都の地にいる間たまに母親のところへも訪ねていってそのたびごと女の後々のことなど繰り返して話していたのであった。振り顧《かえ》って指を折ってみると、もうあの時から足かけ五年になる。
「おかあはん、あなたがどうしておられるか私、始終、心にかかっていたのです。手紙のたびにあなたのことを訊ねてもどこにいるのか、少しも委《くわ》しいことを知らないものですから、一向|不沙汰《ぶさた》をしていました」
「滅相もない。私こそ御不沙汰してます。あんたはんが始終無事にしといやすちゅうこと、いつもあの娘《こ》から聞いていました。ほんまにいつもお世話になりまして、お礼の申しようもおへんことどす」
 月の下の夜道をそんなことを語り合いながら私たちはもう電車の音も途絶えた東山通りを下へしもへと歩いていった。そしてしばらく行ってから母
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