んだん疑いも解け、その気になり、
「じゃ、そうするから、きっとあそこへ来なければいけないよ」と、根押《ねお》しをして、その上もうあまりくどくいわぬようにして、そこの家は体《てい》よくして、二人は別々に出て戻った。
 それから私はまた、いつかの下河原の家へ行って待っていた。それは日の永い五月の末の、まだ三時ごろであったが、彼女は容易にやって来なかった。悠暢《ゆうちょう》な気の長い女であることはよく知っているので、そのつもりで辛抱して待っていたがしまいには辛抱しきれなくなって、いいようのない不安の思いに悩まされているうちに、高い塀に取り囲まれている静かな栽庭《にわ》にそろそろ日が影って、植木の隅《すみ》の方が薄暗くなり、暖かかった陽気が変ってうすら寒く肌《はだ》に触《さわ》るようになってきた。それでもまだ女の顔は見られなかった。不安のあとから不安が襲ってきて、いろいろに疑ってみたが、あんなにいっていたからよもや来ないことはあるまい。そんな背を向けて欺き遁《に》げるような質《たち》の悪い女ではないはずである。そんなことをする女を、おめおめ四、五年の長い間|一途《いちず》に思いつめ、焦がれ悩んでいたとしたら、自分はどうしても自身の不明を恥じねばならぬ。義理にもそんな薄情な行為を為向《しむ》けられるようなことを、自分は少しもしていない。……今に来るにちがいない。不安の念を、そう思い消して待っていた。
 しかし、それは何ともいえない好い晩春の宵《よい》であった。この前の冬の時と同じように女の来るのを待っている心に変りはないが、あの時とちがい今は初夏のころとて、私は湯上りの身体《からだ》を柔かい褞袍《どてら》にくるまりながら肱枕をして寝そべり、障子を開放した前栽《せんざい》の方に足を投げ出してじっと心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山《まるやま》公園につづく祇園社《ぎおんしゃ》の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜しんで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢《あふ》れたように聞えてくるのである。花の季節はもうとうに過ぎてしまったけれど、新緑の薫《かお》りが夕風のそよぎとともにすうっと座敷の中に流れこんで、どこで鳴いているのか雛蛙《かわず》の鳴く音がもどかしいほど懐《なつ》かしく聴えてくる。それを聞いていると、
「あの、喰《く》い付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまいには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思いに責め苛《さいな》まされていなければならぬのであろう。もういつまでもこんな苦しい思いをさせられていないで早く安らかな気持になりたい」
 そこへ長い廊下を遠くの方で足音が静かに聴えると思って見ると、やがて女中が襖の外に膝まずきながら、
「えらい遅うおすなあ。お夕飯はどない致しまひょう、もうちょっとお侍ちになりますか」
と訊く。そんなことが二、三度繰り返された後、私はとうとう待ちきれなくなって、腹立ちまぎれに、またいつかの時のように、先きに一人で食べてしまったら、きっと来るだろう、早く顔を見せるまじないに先きに食べてしまおう、と思って、
「持ってきて下さい」と命じた。その自分の心持ちには、ひとりでに眼に涙のにじむような悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女にあくまでも愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうしてこちらのこの熱愛する心持ちが向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。
 そこへ女中が膳《ぜん》を運んできた。
「おおきにお待ちどおさん」と、いいつつ餉台《ちゃぶだい》のうえに取って並べられる料理の数々。それは今の季節の京都に必ずなくてはならぬ鰉《ひがい》の焼いたの、鮒《ふな》の子|膾《なます》、明石鯛《あかしだい》のう塩、それから高野《こうや》豆腐の白醤油煮《しろしょうゆに》に、柔かい卵色湯葉と真青な莢豌豆《さやえんどう》の煮しめというような物であった。
 私は、口に合ったそれらの料理を、むらむらと咽《のど》へこみ上げてくる涙と一緒に呑み込むようにして食べていた。そうしてもう済みかけているところへ廊下にほかの女中とはちがうらしい足音がして、襖の蔭から女がぬっと立ち顕《あら》われた。彼女はさっきとちがい、よそゆきらしい薄い金茶色の絽《ろ》お召《めし》の羽織を着て、いつものとおり薄く化粧をしているのが相変らず美しい。
「今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ?」
「ええ……」
「じゃ、お今さん、すぐこしらえて下さい。このとおりでいい」女中に命ずると、女は、
「いりません。食べんかてよろしい」

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