さして昇《のぼ》ってくる朝陽の光に消散して、四条の大橋を渡る往来の人の足音ばかり高く聞えていたのが、ちょうど影絵のような人の姿が次第に見え渡って来た。静かな日の影はうらうらと向う岸の人家に照り映《は》えて、その屋並の彼方《かなた》に見える東山はいつまでも静かな朝霧に籠《こ》められている。
 女中に、少ししたら女の声で電話がかかってくるかも知れぬからと頼んでおいて、私はひとり暖かい鍋《なべ》の物を食べながら、
「ああいって、委《くわ》しい電報を打っておいたけれど、ちょうどいいあんばいに女が家にいるか、いないか分らない、とり分け気ばたらきのない、悠暢《ゆうちょう》な女のことであるから……もっともその、しっとりして物静かなところがあの女の好いところであるが……たとい折よく昨夜の出先きから今朝《けさ》もう家に戻《もど》ってきていたにしても、あの電報を見て、早速てきぱきと、電話口に立っ[#「っ」は底本では「つ」と誤植、393−上−22]てゆくようなことはあるまい。ほんとに、人の心も知らないというのは彼奴《あいつ》のことだ」
と、そんなことを思って、不安の念に悩んでいると、ものの一時間ともたたないうちに、女中が座敷に入ってきて、
「あの、お電話どっせ」という。
 私は、跳《は》ね上がったような気がしながら、すぐさま立って電話のところへ下りていった。
「ああ、もしもし私」と声をかけると、向うでも、
「ああ、もしもし」と呼ぶ声がする。何という懐かしい、久しぶりに聴《き》く女の声であろう。振り顧《かえ》って考えると、それは去年の五月から八、九カ月の間も聴かなかった声である。手紙こそ月の中に十幾度となく往復しているが、去年の五月からと言えば顔の記憶も朧《おぼ》ろになるくらいである。
「ああ、わたし。電報を読んだの?」
「ええ、今読んだとこどす」
「よく、家にいたねえ。こちらは分っているだろう」
「よう分っています」
「それじゃすぐおいで」
「ええ、いても、よろしいけど、そこの人知っとる人多うおすさかい。私顔がさすといけまへんよって。あんたはん、今日そこからどこへおいでやすのどす」
「どこへ、とは? 泊るところ?」
「ええ、そうどす」
「それは、まだ定《き》めてない。あんたに一遍逢ってからでもいいと思って」
 それから、ともかくそんなら東山の方のとある、小隠れた料理屋で一応逢ってからのこ
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