《せた》、膳所《ぜぜ》、大津などの湖尻から三里ばかり北に入つてゆく間は東西の幅も一里位のもので、それが野洲河口の長沙と堅田の岬端とで狹められてゐる邊は約半里くらゐのものかも知れぬ。それだけの間が恰も琵琶の轉軫《てんじん》の部分である。所謂近江八景は「比良《ひら》の暮雪」のほかは、多く湖南に屬する地點を撰んで名附けてあるが、今日の如く西洋文明の利器に涜《けが》されない時代には、その邊の風景も落着いてゐて一層雅趣が豐であつたかも知れぬ。その頃は唐崎《からさき》の松も千年の緑を誇つてゐたのであらう。膳所《ぜぜ》の城もその瓦甍影を水に※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐたであらう。粟津《あはづ》が原の習々たる青嵐も今日のごとく電車の響のためにその自然の諧音を亂されなかつたであらう。芭蕉は殊のほかこの湖國の風景を愛《め》でて、石山の奧には長く住んでゐたのであるが、翁の詠んだ句には湖水の深い處の句は、自分の寡聞のせゐか餘り知らない。多く湖南に屬する景物を吟じてゐる。
[#天から2字下げ]唐崎の松は花よりおぼろにて
 と大津にゐて詠んでゐる句を見ると、二百年前にはそれが實景であつたかも知れぬが、今はもう半ば枯れて空しく無慘な殘骸を湖畔に曝《さら》してゐる。それは樹齡の定命で自然にさうなつたものか、それならば止むを得ないが、汽船の煤煙で枯れたものとすれば惜しいものである。
 とにかく堅田《かただ》、野洲《やす》川河口の長沙以南の湖畔の景致は産業文明のために夥しく損傷されて、昔の詩人騷客を悦ばしめた風景の跡は徒に過去の夢となつてしまつてゐる。水も底が泥で汚く濁つてゐる。その代り轉軫の部分から胴の部分に入つて、堅田の鼻を一と※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして遙に北に眼を放つと、水面忽ち濶《ひら》け雲煙蒼茫として際涯を知らない。
 私は琵琶湖の奧の絶景を人から聞いてゐたのは長いことであつたが、いつかは行つてみたいと思つて氣にかゝりながら久しく果たすことが出來なかつた。先頃京都にゐる間にも三條大橋の京津《けいしん》電車の終點からゆけばわけないので、幾度か思ひ立ちながら毎時好機を逸してばかりゐた。すると、僧房の色彩の乏しい生活と、寂しい心を誘惑するやうな堅田の人家の群りと燈火とは遂に私をして、ある五月雨ばれの朝早く比叡山の上から二十五町の急阪を降つてゆかしめ
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