が見えて來た。伊吹山、金糞ヶ岳、それから若狹、越前の國境に繞らしてゐる蜒蜿とした連山も段々明かに認められて來た。賤《しづ》ヶ岳、淺井長政の居城とした小谷山なども指ざされた。そして伊吹山は恰も其等の盟主であるかの如く、頂點のところに白い横雲が捺塗《なす》つたやうにやつぱり引懸つてゐる。天に支へるやうな巨大な體に溢れるほどの感情を表はしながら何といふ強い沈默であらう。頂の雲は今にも動きさうな形をして流れてゐながら、雲も山もそれを見てゐる人間の眼を焦らすかのやうに、彼等は動いたり口を利いたりすることを忘れたのかといひたいほど沈滯してゐる。
饗庭野《あへばの》の陸軍演習地のあるので賑はうてゐる今津の町は、水の上からも、陸軍の白いバラック屋根が多くあるので遠くからそれと知れてゐる。船はそこを最後の歸航地として棧橋を離れると、今まで北に向つてゐた進路を轉じて稍※[#二の字点、1−2−22]北に振つた、東に向つて進んだ。竹生島は船首に當つて段々近寄つて來た。その時分にはもう乘客は殆ど何處の船室にも、甲板にもゐなくなつて、或は私一人であつたかも知れぬ。やがて竹生島の棧橋に上陸したのは午後三時であつた。堅田からそれまで四時間の間飽くことを知らぬ美しい山水を眺めつゞけにして來たのであるが、丁度活動寫眞などを餘り熱心に見てゐると、後で頭痛がしたり精神が疲勞したりすると同じやうに、知らぬ間にひどく神經を使つたと思はれて、さうなくてさへ先達つて京都にゐて二度ばかり劇しい腦貧血を惱んだ後なので、竹生島の棧橋に上陸するとともに頻りに生欠伸が連發して頭が痛み、何とも云へない不快な心持ちになつて來た。その晩は竹生島の寺に一泊するつもりであつたので、ともかく寺務所の一室に通されて暫らく休息した上で、觀音堂や都久夫須麻《つくぶすま》神社などを一順參拜した。いづれも太閤の桃山御殿の一部を移したものとかで、壯麗なる蒔繪の天井や柱が年を經て剥落してゐる。すこし良くなつたと思つた心持がまた前に倍して惡くなつてきたので、觀るのはいい加減にしてまた寺務所の一室に戻つて來て外套にくるまつたまゝ仰けに寢てゐた。頭は壓し潰されるやうに痛む。胸は嘔氣を催ほして少しでも頭を動かすことが出來ぬ。氣も遠くなるやうな心持になつてゐた。そして若し此のまゝ腦溢血にでもなつて死んだらどうなるだらうなどといふやうな雜念が湧いて起つた。そ
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