家があるけれど、入口の名札に藤村という女の姓も名も出ていない。それでまた引き返してもう一度俥屋にいってもっと委しく訊くと、その三軒の平家の中央《まんなか》の家がそれだという。
「ああ、そうですか?」と、いって、俥屋の女房には、逆らわずそのまままたもとの路次の方に引き返したが、今の先き見たところでは、その中央の家には、なるほど、まだ白木のままの真新しい名札が出ていたが、それには飯田とのみ誌《しる》してあった。私は不審さに小頸を傾《かし》げながら、もう一度路次に入って来てその飯田という名札の掲っている中央の家の前に立って、しばらく考えていた。
ああ読めた! 飯田というのは旦那の姓であろう、こうして、この旦那は、可哀《かわい》そうな私とは正反対に好きな女をうまうまと自分の持物にしおおせて、この新しい表札を打ったのであろう、と、向うの、その嬉《うれ》しい気の内を想像するだけ、自分は恐ろしい修羅《しゅら》に身を燃やしながら、もう生命《いのち》がけであくまでも自分の悪運に突撃してゆこうとする涙ぐむような意地になって来た。三尺をまた半分にした、ようよう体《からだ》のはいられるだけの小さい潜戸《くぐ
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