私は、そこに棒立ちになったまま、幾度か自分の眼を疑って、札の取れているのが、どうぞ悪い夢であれかしと念じたが、たしかに札は取れている。よほど思いきって、そのままその家へ入って行って訊ねてみようかと思った。彼女に自分という者が付いているのは、ここの家でもよく知っているはずである。構いはしないだろうと思ったが、自分は、彼女と関係の出来た最初から、どこまでも蔭の者になって、そっと自分の所有《もの》にしてしまうつもりであったので、今さら、女がいなくなったといって、そこの家へ訪ねて往き、自分のほかに、もっと深いふかい男があって、その男に落籍《ひか》されたのに、こちらが、男は自分ひとりのような顔をしていて、裏にうらのある、そんな稼業《かぎょう》のものの真唯中《まっただなか》に飛んだ恥を曝《さ》らすようなことがあってはならぬ。自分は、彼女をこそ、生命《いのち》から二番めに愛していたけれど、それとともに自分の外聞をも遠慮しなければならぬ。
と、焦躁《いらつ》く胸をじっと抑《おさ》えながら急いで、そこの小路を表の通りに出てきて、そこから近い、とある自動電話の中に入って、そこの家の番号を呼び出して訊ね
前へ
次へ
全89ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング