なく母親と入れちがいに女がそこへ入って来て、笑顔を作りながら、
「おかえりやす」と懐かしそうにいって、私の膝《ひざ》の前に近く寄ってぺったり坐った。そして二言三言口をきき交わしているうちに、客というのが襖の外の茶の間を通って、中庭から帰ってゆくと思われて、母親も後から入口まで送って出たらしい。私は、何の気もなく、どんな人間が帰ってゆくのかと思って、ちょっと起ち上がって縁側の障子を開いて、小さい前栽《せんざい》と玄関口の方の庭とを仕切った板塀《いたべい》の上越しに人の帰るのを見ると、蝙蝠傘《こうもりがさ》を翳《かざ》して新しい麦藁《むぎわら》帽子を冠《かぶ》り、薄い鼠色《ねずみいろ》のセルの夏外套《なつがいとう》を着た後姿が、肩から頭の方の一部だけわずかに見えたばかりで、どんな人間かよく分らなかった。
そこへ母親も入って来て、
「お帰りやす」と、今度はいつかのとおりに愛想のよい調子で、あらためて挨拶《あいさつ》をしながら、「今ちょっと知った呉服屋さんが来てましたので、あんたはんまた顔がさすと悪い思うて、ちょっとここで待ってもらいましたんどす。……階下《した》のお婆さんも今日は出やはりま
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