ったので、ゆうべ一と夜寝ずにああこうと考えていた順序に従って、朝飯の箸《はし》を置くとそのまま出て往き、どこよりも先ず祇園町の裏つづきの、例の、女が先にいた家にいって、階下《した》の家主の老婦人のもとを訪《たず》ねてみたが、今朝《けさ》は宅にいるはずだと思っていたのに、昨夜《ゆうべ》のとおりにやっぱり門に錠がおりている。しかたなく路次の入口の店屋で訊《き》くと、
「お婆さんは、上京の方の親類とかに病人があるとかいうて、一週間ほど帰らんいうてお往きやして、そうどんなあ、それがもう二、三日前のことどす」といってくれる。
私は、そこに突っ立ちながら、「二、三日前」それなら何という残念なことをしたろう。田舎《いなか》から京都に戻ったあの翌日《あくるひ》高雄へ紅葉を見に行かずに、ここへ来たら、何とか女の様子も分ったろうに、と、思ったがしかたがない。それにもうここには三月も前からいなくなっているのだから、家主のお婆さんがいたとて委しいことは分らないかも知れぬ。昨夜松井の内のお繁婆さんの話の端に、叔父さんというのは、油の小路とか三条とか言っていた。それに、ずっと以前に女から一人の叔父は油の小路とかで悉皆屋《しっかいや》とか糊屋《のりや》とかをしていると聞いていたように思う。母親が上京の方の親類に同居して厄介《やっかい》になっているといったのも、そこかも知れぬ。姓も彼女の姓とは異《ちが》っている、名も知らないが、もし神という者がこの私の真心を知ってくれるならば何とかしたら分るすべもないこともあるまい。これから油の小路に往って、悉皆屋と糊屋とを一軒一軒|探《たず》ねて歩いてみよう。そう決心して、それからすぐ油の小路に廻っていった。そして三条四条を中心にして、その上下を幾回となく往きつ戻りつして一々両側を歩いてみたが、もとより雲を掴《つか》むような話で、悉皆屋と糊屋とは幾らもあるが、手がかりのあろうはずもない。そしてほとんど半日以上も一つのところをお百度を踏むようにして、ついに歩き疲れて屈託しながらひとまず宿まで引き揚げて来た。
そのまた翌日、むやみに探ね歩いてもしかたがない、何とか好い思案はあるまいかと一日外へ出ずに考えていたが、暮れ方になって、やっぱりあの先にいた路次の中の家主のところに行ってみるのがいいように思われるので、一日内にとじ籠《こ》もっているよりもと思って出かけていったが、一週間ほど不在《るす》といいおいていって、まだ三、四日にしかならぬのであるから、老婦人はまだ帰っていない。相変らず門の扉《とびら》にはさびしく錠がおろしてある。するとその路次の中に立っていると、そこへ路次の入口の米屋の女房が共用水道の水を汲《く》みに出てきたので、そのおかみは東京者で、一度も口をきいたことはなかったが、夏の初め以来、顔だけ見知っていたので、もちろん先きでは、これが、あそこの二階にいる女の旦那と思って、こちらよりも一層注意して見ていたかも知れぬ。それで、そのおかみに、
「ここのお婆さんはお留守でしょうか」と、昨日《きのう》も出口の店屋で訊いているので無駄だと知りつつも、そう言って訊《たず》ねると、おかみは、バケツを提《さ》げたまま、
「あの、あそこの二階にいたお婆さんですか」と、門の外から女のいた二階の方を指さしながら、訊き返した。それで私は腹の中で、階下《した》のお婆さんのことを訊ねたのだが、それを訊くのも、やっぱり階上《うえ》にいた女の母親のことを訊ねようとてであるから、これは、うまい具合だと思って、
「ええそうです」と、いうと、
「あのお婆さんは、つい五、六日前に、すぐそこの、安井の金比羅《こんぴら》様のあちら側にお越しになりました」という。
私は、心の中で肯《うなず》いて、それじゃ、八月の末にここの所帯を畳んでしまって母親もいなくなったと言ったのは、皆なこしらえごとであったかと、合点《がてん》しながら、さあらぬ風に、
「ああそうですか。五、六日前に変りましたか」
「ええ、ついこの間です。たくさんに荷物を持って。お婆さん、私にも挨拶をして下すって、今までは二階借りをしていましたけれど、今度は自分で一軒借りました。気兼ねがなくなりましたから、どうぞ遊びに来て下さいというて行かれましたけれど、私もわざわざ行く用もありませんから、まだ往っては見ませんが、なんでもすぐそこの横町の通りからちょっと入った、やっぱり路次の中だそうです」
私は、はっと胸を刺すように思い当って、自分でも、顔から血の気が一時に失せたかと思った。今までは二階借りであったけれど、今度は一軒借りきりで、気兼ねがない。たとい病気というに※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、読みは「うそ」、438−下−7]はないにしても、背後《うしろ》に誰か金を出す者が付いているに定《きま》
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