を好い思いきり時に、いっそここで、これっきり女を綺麗《きれい》さっぱりと思い断《き》ってしまおうか、そうすると、この心の悩ましさを解脱することが出来て、どんなに胸が透くであろう。そして決然としてすぐにも東京へ帰って行って、多年女ゆえに怠っている自分の天職に全心を傾倒しよう。どうかして、そういう心になりたい、と思いながら、私は、膝《ひざ》の前に置かれたそれらの男からの手紙をじっと見つめながら、封の中にどんなことを書いてあるのか、出来ることならば、封を切って中を読んでみたいように思った。差し出したところを見ると、どこか地方に行っていて、その旅先から出したものらしいから、その男も、女が気が変になって、商売を廃めてこの土地から消え失《う》せたことは知らずにいるのであろう。……私がそうして、じっとそれらの封書に見入っているので、お繁はどう思ったか、
「この人はほんの五、六度知ってるだけどす。私もちょっと顔を見て知ってます。あれはどこのお客やったか」と考えるようにして、
「たしか、井の政のお客やったと思う。去年の春からのお客どした。……こうして人さんの手紙どすさかい、中を読んで見るわけにもいきまへんしなあ」と、私を慰め顔に言う。
「いえいえ、なにこの手紙を見たいと思ってるわけじゃありません。……ただお園が、叔父さんに連れられていったきりで、今どこにいるのか、私も、あなたも御存じのとおり、もう長い間心配していた、あの女のことですから、ぜひ一遍会って、病気の様子を見たいと思って……」と、私は、どこへ取りつく島もないような気がして、そういうと、お繁婆さんも、さすがに同情のある調子でうなずきながら、
「ええええ、あんたはんのことは、皆な、もうよう知ってます。どこにいやはるか、ここにおらんようになってからでも、もう半月くらいになりますよってなあ」
 私はなおも繰り返して、そのうちにも自然居処が知れるようなことがあったら、是非知らしてほしいとくれぐれも嘆願するように頼んでおいて、ようようそこを出て戻った。

     六

 外に出ると、もう十二時を過ぎているので、お茶屋へ往き交う者のほかは人脚も疎《まば》らになって、冷たい夜の風の中に、表の通りの方を歩く下駄《げた》の足音ばかりが、凍《い》てついた地のうえに高くひびいているばかりであった。
 そして、気が狂って叔父に連れられて、どこへ往ったとも分らなくなった女の身の上が、今は可愛《かわい》い、いじらしいというよりも、その可愛い、自分にとっては、自分がこの世に生存している唯一の理由でもあり楽しみであると思っていた女が、自分が一、二度会ったことのある男とも知っていたのであったのであったかということのみが、胸の中一杯に蔓《はびこ》って、これほど愚かしいことはない、何の因果で、あの女が思いきれぬのであろうと、自分の愚かしさを咎《とが》めつつも、やっぱり思いきることが出来ず、その愚かしい煩悩《ぼんのう》に責め苛《さいな》まれる思いをしながら、うかうかと道を歩いていた。
 そこから祇園町の一郭をちょっと出はずれると女の先《せん》にいたところまではすぐなので、たとい今はもうそこにいなくなったにしても、その階下《した》の家主の老婦人は性格《たち》の良い女性《おんな》であるから、その人に会って訊ねたならば、もしや知っているかも知れないと思って、一旦戻りかけた足をまたそちらへ向きかえて、そこの暗い路次の中に入ってみたが、門は堅く締っていて、あたりはいずこももう寝静まっている。
「ああ、われながら愚かしい。今時分この辺に起きている家もないはずであった」と、心づいて、「ともかく今晩は帰って寝て考えよう。気が狂ったといううえに、今晩になって、はじめて気がついたわけでもないが、知らぬうちこそ清浄《きれい》だが、だんだんあとからいろいろなことが分ってくると、この先まだまだ厭な思いをしなければならぬ。自分に強い意思があるなら、今晩という今晩こそ、彼女を潔く思いきって、彼女をはじめて知って以来、足かけ五年の間片時も心の安まらなかった苦患《くげん》を免かれて、快い睡眠を得ることが出来るのだが。……今、あんな人間から来ている手紙を見たのは、冷酷で皮肉と思われる運命の神がその実深切に、自分に誡告《かいこく》してくれたのかも知れぬ。……それにしても、運命はあまりに皮肉で悪戯《いたずら》なことをする」と、私は気ちがいになった、憐《あわ》れな彼女を愛しようとしても、皮肉な悪戯な悪魔がいて、愛することを妨げられているような、何ともいえない辛《つら》い思いに胸を拉《ひし》がれながら、やっと終い際《ぎわ》の電車に乗って、上京《かみぎょう》の方の宿に戻って来た。
 その夜はほとんど微睡もせずに苦しみのうちに明かして、翌日《あくるひ》は幸い気候も暖かであ
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