いと》しんで長い間尽していたのである。それゆえたとい精神に異状を来たしていようが気狂《きちが》いであろうが、あんな繊美《うつく》しい女が狂人になっているとすれば、そんな病人になったからといって、今さら棄《す》てるどころか、一層|可愛《かわい》い。いかなる困難を排しても女を自分の手中の物にして、病気をも癒《なお》してやらねばならぬと思っているのに、もし、自分のこの体《てい》たらくを見知っている者があって、自分を痴愚とも酔狂ともいわば言え、自分ながら感心するほどの真実を傾け尽して女のことを思っているのに、こんな男を同伴して来る母親の心が怨めしい。なぜ自分のこの胸の内が母親には分らぬのであろう。自分一人で来て打ち融《と》けた談合をしようとせずに、訊くまでもなくもう底意《そこい》は明らかに見えている。その母親の心が、もうすっかり私と絶縁しているということが、惨《みじ》めに私の胸に打撃を与えた。
それを思いながら、私は黙り込んでいると、その男は、
「僕は、この藤村の親類の者に依頼せられて今日来たのだが、君がこの藤村の娘を大変脅迫したために、精神に異状を来たしたといって、ひどく立腹をしている。それで、君がどうしても女が欲《ほ》しいなら、銭《かね》を五百何十円出してもらわねばならん」と、横柄な調子でいう。
私は、それを聴《き》くと、もう、むらむらとなった。そして、腹の中で、「何を吐《ぬ》かしやがる。盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとは、その言い分である」と、思ったが、それはじっと抑《おさ》えて口には出さず、
「はあ、私が藤村の娘を脅迫したために精神に異状を来たしたというのですか。……なお、女が欲しいようなら、銭を五百何十円出せ? 私にはよく合点がゆかぬ」と、言葉は、なるべく静かにしながら、きっとなって問い返した。
するとその男は、
「自分はただ頼まれたので、委しいわけは知らんが、君が当人をひどく嚇《おど》かしたのが原因で気が狂ったそうじゃないか。そのために親類一同の者が大変君を怨んでいる」と、頭から押《お》っ被《かぶ》せようとする。
それを聴いて私は、あまりの腹立たしさに顔が痙攣《けいれん》するかと思うほど硬《かた》くなったのを、強《し》いて笑いながら、
「戯談《じょうだん》をいっている!」と、語気を強めて吐き出すように言った。「なるほど今年の一月以来、……それまで、
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