えば、母親が一昨日話していた隠居のお婆さんが入院したというのかも知れぬと思いながら、なおそこを立ち去りかねて、一、二度表から潜り戸を引っ張ってみたり、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、443−上−15]子窓《れんじまど》の磨《す》り硝子《ガラス》の障子の隙《すき》から家の中を窺いてみようとしたけれど、隣家《となり》の女房が見ているので、押してそうすることもならず、そのまま引き返して路次を出て来た。そして群疑《ぐんぎ》はまた雲のごとく湧《わ》き上った。けれども、母親のいったように付き添うている隠居の婆さんと、自分の娘と二人の病人を持っているのが真実ならば、急《せわ》しい道理である。今日は私を訪ねるという約束が一日二日延びても無理はないと、また思い直して、悄然《しょうぜん》として宿の方に戻ってきた。
 その翌日《あくるひ》、たしかに当てにはならぬが、もしか今日は来はせぬかと、また一日外へ出ぬようにして心待ちに待ちながら、不安と疑いとに悩まされて欝《ふさ》ぎ込んでいると、二、三時ごろになって、宿の者が、お年寄りの御婦人の方がお見えになりましたと知らして来たので、とうとう来たなと、すぐ通してくれるようにいって待っていると、表の方から、長い廊下を伝うて部屋に入って来たのは、母親のほかに今一人、かつて見も知らぬ、人相がはなはだ好くない五十余りの、背のひょろ高い、痩《や》せぎすの男である。見ると蒼白《あおじろ》い顔色に薄い痘痕《あばた》がある。
 私はその男の様子を見ると同時に、はっとした感じが頭に閃《ひらめ》いた。それで、じっと心を落ち着けて、態度を崩《くず》さぬようにしながら、平らやかな顔をしてわざと丁寧に一応の挨拶を交わしてみると、その男は懐中から一枚の名刺を取り出して私の前に差し出しながら、
「私はこういう者です」という。
「ああそうですか」といいつつ、それを手に取り上げて読んでみると、「京都市何々法律事務所事務員小村|何某《なにがし》」と仰山に書いている。私は、
「ああそうですか」と重ねてうなずいて見せたがこんな男が二人や三人組んで来たくらいで、びくともするのじゃないが、それにしても一昨々日《さきおととい》の晩、母親と立ち話をして別れた時にも、自分はどこまでも人情ずくで、真実|母子《おやこ》二人の者の身を哀れに思ったのであった。そして、哀れに思えばこそ一人|愛《
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