なく、鈴鹿《すずか》は雲に隱れて嘘のやうな時雨がはら/\と窓を打つてきた。行方なき風雲の、先きを急ぐ旅でもないので、かういふ日にこそ廢驛を眺めわびたいとおもつて、待夜の小室節關の小萬で名の高い關の驛で汽車を棄てる。まだ十時半過ぎたばかりなので早い。
 今夜はこの處に一夜逗留して見たいと思ふが、名匠|狩野元信《かのうもとのぶ》が、いくら巧に描いても繪は到底自然生えの杉の美しさには比ぶべくもないと浩歎を發して繪筆をとつて、投げ捨てたと傳へられる筆捨《ふですて》の溪も遠くはない。殊にこのわたりの杉は自然を見る眼の常人に卓絶してゐた審美眼を感動せしめたも無理からぬほどに美しい。それで停車場の車夫に掛合ひつゝ、有名な地藏尊は歸途に殘して、まづ筆捨山に向ふ。時雨れて濟むほどの雨ならば、行々かの恐ろしきローマンスの傳はる坂下より昔の鈴鹿峠を越えて、江州に入り、「阪は照る/\鈴鹿は曇る。あひの土山《つちやま》雨が降る。」てふ郷曲の風情を一人旅の身にしめながら土山までのり、その晩は遂にいぶせき旅籠《はたご》に夜を明し、翌日は尚ほ三里の道を水口までゆき、貴生川《きぶかは》を經て汽車を利して柘植《つげ》に※
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