文筆のわざさへひたすら枯淡なる事務のやうになつて、旅にゐるときのやうに自然の情趣が湧かない。私の魂魄は今、晩秋初冬の夜々東京の棲家をさまよひ出でて、遠く雲井の空をさして飛んでゐる。
私は府縣別の地圖を座右に備へて置く。そして毎晩就寢のとき枕頭にそれを展いて見るのである。哀れ深き旅の空想は私の夢を常に安からしめる。富士の頂きに初雪を見る頃になつて、さすがに夏は懷かしい東北の山河は、私には思ひ浮べるだにおぞましい。南海、西海の邊土は、未だ多くわが脚を踏み入れたことはないが、須磨、明石さへ遠隔の地のやうに思つた昔の京都の殿上人の抱いてゐたやうな感情は私にも遺傳されてゐると思はれて石炭の煙突煙る九州の地は私にはあまりに遠國すぎる。私の最も愛好する地勢と風土は伊勢大和近江の境にある。そのあたりの地圖を閲しつゝ私は自由に旅の空想を夢むのである。此度の旅は少くとも二箇月くらゐはさすらふ豫定でそのつもりで旅支度をとゝのへ些の未練もない東京の空には暫時の訣別を心の中に告げつゝ夜九時の急行車で中央ステーションを出發する。この時停車場の大廊下に鳴りひゞく旅人の下駄の足音も私の耳には天樂の如くいみじき音律と
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