た。

 そうなったら憎いが先に立って、私は翌朝《あくるあさ》起きてからもお宮には口も利かなかった。それでも主婦《おかみさん》が階下《した》からお膳《ぜん》を運んで来た時、
「御飯をお食べなさい」と、いうと、
「私、食べない」といったきり不貞くされたように沈み込んでじっと坐っている。
 私も進まぬ朝飯を茶漬《ちゃづけ》にして流しこんだ後は口も利かずに机に凭《もた》れて見たくもない新聞に目を通していた。
「わたし朝鮮に行ってしまうよ」と、また泣き声でいった。
 私は、勝手にしろ。朝鮮にゆこうと満州にゆこうとこっちの知ったことじゃない。と思いながらも、
「朝鮮なんかへ行くのは止《よ》した方がいいよ。私がどうかしてあげるよ」と、優しくいった。
「あなたにどうしてもらったってしょうがない」
 そういういい方だ。
 私は素知らぬ振りをしてややしばらく新聞を読んでいた。
 お宮は黙って考え沈んでいる。するとだしぬけに、
「あなた奥さんどうしたの?」そんなことをいった。
「うむ、どっかへ行ってしまった」
「もうどっかへ嫁《かた》づいているの?……柳沢さんそんなことをいっていたよ」
 それを聴いて私はいよいよ柳沢が蔭《かげ》でお宮にいろんなことをいっているのが見え透くように思われた。
「柳沢がどんなことをいっていた?」
 私は思わず顔を恐ろしくしてきっとお宮を瞻った。
「うむ、何にもいやしないさ」怒ったようにいった。
 私はますます気に障《さわ》ったがそれでもなおじっと堪えて、再び口を噤《つぐ》んだ。
「あなた私が柳沢さんのところへいったらどうする?」お宮はまた泣くような声でいった。
「行くなら行ったらいいじゃないか。何も私に遠慮はいらない」
「ほんとに柳沢さんのところにいってもよくって?」
「そんなにくどく私に訊《き》く必要はないじゃないか。……私にも考えがあるから」
「じゃどうするの?」
「どうもしやあしないさ」
「私、あなた厭。何でもじきに柳沢さんにいってしまうから」
「私が何を柳沢にいった?」
「あなた何だって、私があなたに話したことを柳沢さんにいった」
「うむ、そりゃいったかも知れないが、お前と私とで話したことを話したまでで、他人の噂《うわさ》でもなければ悪口でもない。柳沢こそそうじゃないか、私は柳沢を友達と思っているから、お前のことばかりじゃない。もっと大切な先《せん》
前へ 次へ
全50ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング