《くらがり》を今までよりもなお急ぎ足に走った。
「ねえ。ようあなた。どこへゆくんです?」お宮は躍起になって後から走って来る様子である。私はお宮がそんなにしているのが分ると、さっきから一ぱいに塞《ふさ》がっていた胸がたちまち和らかに溶けて軽くなったようになった。そして兜橋の上まで来ると欄《てすり》に凭れてお宮の追っかけて来るのを待っていた。
「あなたどこへゆくつもり? こんな寂しいところに人をうっちゃっておいて」むきになって傍《そば》に寄って来た。
「どこへも行きやしないさ。お前が怠儀そうにして歩いているから私は一緒に歩くのが焦《じ》れったくなったばかりさ」私は冷やかな口調でいった。
「…………」
「私、これから帰って、清月にいって菊ちゃんを呼んでもらおうかしら!」独語《ひとりごと》のように考えかんがえいってやった。
「あの女、君とちがって何だか優しそうだ」そういいながらも私の心の中はお宮に対して弱くなっていた。
「そんなによけりゃ呼んだらいいじゃありませんか。さっきから菊ちゃんきくちゃんて、菊ちゃんのことばかりいっているんだもの」
 暗黒《やみ》の中に恐ろしい化物かなんぞのように聳《そそ》り立った巨大な煉瓦《れんが》造りの建物のつづいた、だだッ広い通りを、私はまた独りで歩き出した。水道の敷設がえでもあるのか深く掘り返した黒土が道幅の半分にもりあげられて、暗《やみ》を照らしたカンテラの油煙が臭い嗅《にお》いを漲《みなぎ》らしている。
「あなた、またどこへゆくの?」お宮は追っかけて来た。
 並んで一緒にいると仏頂面《ぶっちょうづら》をして黙っているのが気に入らないので、私は少しも面白くなくって、物をもいわず、とっとと走った。
「じゃ私もう帰る!」お宮は私の後からそう呼びかけて、途中から引っ返えしたらしい。しばらくして後の方を振り顧《かえ》って見ると、お宮は本当に後戻《あともど》りをして、もう向うの方に帰ってゆく様子である。
 そうなるとこんどは私の方で気になって後を追っかけた。
「おうい、かえるのかい。じゃ私も一緒にかえる」
 お宮はその声を聞いてから、前より一層早く駆け出した。
「おうい、まてよ。私も一緒にかえるよ」そういっていくら呼んでもお宮はどこまでも駆けていった。そしてあらめ橋を渡って新材木町の河岸を先へさきへと一生懸命に走った。すると暗いところをむやみに走って
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