なくてさえ柳町の姉を初め自家《うち》の者は皆な私が浮気であなたとこんなことをしているように思っているんですから。あなたは、そりゃ男だし、ちゃんとお銭《かね》をかけて一人で食べてゆかれるようにしてある体ですから、浮気をしたっていいでしょうが、私は少しもそんな考えであなたと今まで一緒にいたんじゃない」
 そういいながらだんだん眼が冴《さ》えて来たと思われて、寝床の上に起き直ってむやみと長煙管《ながぎせる》で灰吹きを叩いていた。
 蚊帳ごしに洩《も》れくる幽暗《うすぐら》い豆ランプの灯影《ほかげ》に映るその顔を、そっと知らぬ風をして細眼に眺めると、凄《すご》いほど蒼《あお》ざめた顔に色気もなく束《つか》ねた束髪の頭髪《あたま》がぼうぼうと這《は》いかかっていた。
 私は、いいたいだけ言わしておいて、借りて来た猫《ねこ》のように敷布団の外に身を縮めてそのまま睡《ねむ》りこけた。
 
 翌朝《あくるあさ》になると、それでも気嫌よさそうに
「お老母さんには、柳町に行っても、あなたのことは何にもいわないようにしておくれ。と、いっておきました」
 そういった。
「ああそうか」
 と、いいながら、私は、久しぶりで口に馴れたお前の手で漬《つ》けた茄子《なす》と生瓜《きゅうり》の新漬で朝涼《あさすず》の風に吹かれつつ以前のとおりに餉台《ちゃぶだい》に向い合って箸を取った。
「あなた、またああそうかって、ああそうかじゃいけませんよ。老母さんに口留めしている間に二、三日の内に下宿なり、間借りをするなり早く他へ行って下さい」
 そういわれて、私はせっかくうまく食べかけていた朝飯が溜飲《りゅういん》になってしまった。
 三日目に老母さんから聴いたと思われて、柳町から新吉が凄《すさま》じい権幕でやって来た。
 私は折から来客があったので、老母さんの四畳半の方に上っていった様子をチラリと認《み》たから、わざとその客を引き留めて雑談に時を過しながらヒステリーの女みたいに癇癪《かんしゃく》の強い新吉の気を抜いていた。
「あなた、新さんが、ちょっと雪岡さんに話しがあるといって、他室《あちら》でさっきから来て待っています」
 お前が、さも新吉の凄じい権幕に懼《おび》えたように、神経の硬《こわ》ばった相形《そうぎょう》に強《し》いて微笑《わらい》を見せながら、そういって私の部屋に入って来た。
「雪岡さん、君は
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