かぎり此家《ここ》を出てゆきます。もう此家を出てしまえば私とおすまやあなた方との縁もそれで切れてしまいます。七年の間には随分あなたやおすまに対してひどいことをいったこともありますが、それは勘弁してもらいます。……私も出て行ってしまえば、もうおすまをどうしようとも思いませんから安心して下さい。……真実《ほんとう》におすまはどうしているんです。私がこうして綺麗に引き払って出てゆくんですから、それだけ言ってきかしたって別条ないでしょう」
私は心から詫《わ》びるような気になって優しくいった。すると老母さんはどう思ったか、きっとそんな言葉には何とも感じなかったろうが、膳を置いてゆきがけに体《からだ》を半分襖に隠すようにして
「おすまは女の児の一人ある年寄りのところに嫁《かたづ》いています……」
老母さんの癖で言葉尻を消すようにただそれだけいって、そのまま襖をぴたりと閉《し》めて勝手の方へ行ってしまった。
私はそれを聴《き》くと一時《ひととき》に手腕《うで》が痲痺《しび》れたようになって、そのまま両手に持っていた茶碗《ちゃわん》と箸を膳の上にゴトリと落した。一と口入れた御飯が、もくし上げて来るようで咽喉《のど》へ通らなかった。
そして引越しの方はそのまま小倉に任せておいて私はまるで狂気のようになって家を飛び出した。
「ああ、七年添寝をしていたあの肉体《からだ》は、もう知らぬ間に他の男の自由になっていたのだ。ああもう未来|永劫《えいごう》取返しのつかぬ肉体になっていたのか!」
と、心を空にその年寄りだという娘の子の一人ある男の顔容《かおかたち》などをいろいろに空想しながら、やたらに道を歩いていった。
そうしていつか矢来の老婆《ばあ》さんが
「どうもおすまさんは伝通院《でんづういん》の近くにいるらしい」
と、いったことを思って山吹町の通りからいっさんに小石川の方に出て伝通院まで行って、あすこの裏あたりのごみごみした長屋を軒別《けんべつ》見て廻った。そしてがっかり疲《くたび》れた脚《あし》を引《ひ》き擦《ず》りながら竹早町から同心町の界隈《かいわい》をあてどもなくうろうろ駆けまわってまた喜久井町に戻って来た。
「もう皆な小倉さんが持っていきなすったんですよ。もう何にもありやしません」
老婆さんは、何しに来たかというように言った。
だんだん減っていた私の所持品《もちも
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