なことは綺麗だったよ」
さすがに柳沢も思い入ったようにいった。
私は、それを聴いていて胸が塞がるような気がした。私がわずかばかりの銭《かね》の工面をして、お宮にただ逢《あ》うのでさえ精一ぱいでいるのに柳沢はもうお宮とそんな小説の中の人間のような楽しい筋を運んでいるかと思うと、世の中のものが何もかも私を虐《しいた》げているような悲痛な怨恨《うらみ》が胸の底に波立つようにこみあげて来た。そうしてよそ目には気抜けのしたもののように呆然《ぼんやり》として自分一人のことに思い耽《ふけ》っていた。すると自分が耐力《たあい》もなく可哀《かわい》そうになって来て、今にも泣き溢《こぼ》れそうになるのをじっと呑《の》み込むように抑えていた。
ややしばらく経《た》ってから取着手《とって》もない時分になって、
「歌舞伎座にもつれて行ったのか!」と、曖昧《あいまい》な勢《せい》のない声を出した。
「その帰途《かえり》に鳥安にいったのだ」
そして私は腹の中で、先日お宮が、
「書生らしい、厭味のない人よ。鳥安を出てから浅草橋のところまで一緒に歩いて行ったの。『僕はここから帰る。電車賃だ』と、いって十銭銀貨をすうっと私の掌《て》に載せて、自分はそれきり電車に飛び乗ってしまって」
こういって思い味わうようにしていたのを、自分でもまた想いだして、下らなく繰り返していた。
そこへそうっと襖《ふすま》を明けてお宮が入って来た。後からも一人若い女がつづいて入った。
「あらッ!」とお宮は、入って来るからちょうど真正面《まとも》にそっち向きに趺座《あぐら》をかいていた柳沢の顔を見て燥《はしゃ》いだように笑いかかった。
いつもよく例の小豆《あずき》色の矢絣《やがすり》のお召の着物に、濃い藍鼠《あいねずみ》に薄く茶のしっぽうつなぎを織り出したお召の羽織を着てやって来たのだが、今日は藍色の地に細く白い雨絣の銘仙の羽織に、やっぱり銘仙か何かの荒い紫紺がかった綿入れを着ているのが、良い家の小間使か、ちょっとした家の生娘のようで格別あどけなく美しく見えた。そうして私は、柳沢がいつか小間使というものが好きだ。といって、かつて大倉喜八郎の家へ新聞記者で招待せられた時、そこで一人の美しい小間使が眼にとまって、
「僕はあんな女が好きだ」と話していたことを思い出していた。
白い顔に薄く白粉をして、両頬に少し縦に長い靨
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