とらへて、榛の木の根もとに押しやつた。昌さんはやつと綱をほどいた。牛は温和《おとな》しくついて行く。すると昌さんは何を思ひ出したのか、急に綱をおつ放《ほ》り出して小屋の中へ入つた。民さんが、「何してるつ」と叫ぶが、なかなか出て來ない。昌さんはやうやく出て來た。どういふわけか、左足首に黒い紐を結びつけてゐる。民さんは又眞紅になつた。「何だ、何だつ」と云ひながら追つかけて、その紐をひきちぎらうとした。昌さんはあの「あ――あア」といふ聲を出して必死に拒んだ。民さんがその肩をつきやる。彼はどうしてこんなに怒るのかと他目《よそめ》には思へるほど奇妙な怒りに燃えてゐるのである。昌さんは綱のはしを持つて、氣むづかしい顏をして、ふらつくやうに榛の木の疎林と桑畑の間の路を向ふへ、その後から短躯の民さんが背負枠を負ぶつて、がに股をしてついて歩く。彼等は牛小屋のわきを通つて、そこにゐる他の牛どもを集めて、それらの黒と白の斑《まだら》な背が日の中にくつきり輝いて、傾斜の草地を上つて、芽の出そろつた林の中へ隱れてゆく。――
夜更けになつて、僕の耳に彼等二人が庭の向ふの小屋の中で言ひ爭つてゐる聲が聞えて來る。
「それは僕のですよ。もらつたんですよ」
「うるさい」と民さんが低く叱りつける。
「それ、僕のですよ。僕がもらつたんですよ。もらつたんですよ」
「うるさい」
「もらつたんですよ」
「うるさいつ」
「僕のですよ」
「うるさいつたら」
――。やがて、彼等も默つてしまふ。何の物音もしなくなる。ランプを消してしまつた家の中は眞暗だ。トタン屋根の上に小さい枯枝か何か落ちる音がする。僕は起きてゐる。起きてゐて、けふのひる間散歩に出て、林間の日だまりの草地に寢ころんでゐたとき、ふいに何とも知れず心が重くなり、永い間起き上れなかつたことを思ひ出す。何だらう、これらのものは。これら一切のものは。
底本:「現代日本文學全集79 十一谷義三郎 北條民雄 田畑修一郎 中島敦集」筑摩書房
1956(昭和31)年7月15日初版発行
初出:「早稲田文學」
1935(昭和10)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「邊」は底本では、「穴」の一点目を欠いた「あみがしら」でつくってあります。これをJIS X 0213規格票「6.6.3.
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