らしたりした。

 かう云ふ軍治と幾との間は普通の継母子でもなければ実母子でもなく、相反撥し、又、相引合ふ奇妙な状態であつて、それが軍治に苦痛を与へてゐると同じやうに、幾の中にも絶えず響いてゐるのだつた。
 鳥羽が軍治に幾の家の跡目を継がせようと言つて呉れた時には、自分のこれから先が急に開いたやうな気さへしたのだ。同じやうに蒔もこれには涙をこぼして嬉しがつたので、それを見ると、幾は自分も苦労の仕甲斐があつた、と思つた。鳥羽家の子供を晴れて吾が子と呼び、母と呼ばれる楽しさは、鳥羽に死なれ、又以前のやうな商売に入る辛らさを消し慰めて呉れたのだつた。軍治の母になると、鳥羽の親戚の者でさへ以前とは違つた眼で見てくれるのがそれと解る程だつた。
 しかし、母だ母だと思つてみたところで、軍治に対する今更らしい扱ひ様があるわけではなかつた。鳥羽の子供だと云ふことが未だに頭にあり、又、下手にばかり出てゐた癖は消え失せず、結局軍治の我儘を通してやることが多かつた。母と呼ばれることにも慣れてみれば、商売の忙しさが身を追つて来て、寝る暇さへない位に働いてゐる中には、気の張りも出るし、人扱ひの面白さも思ひ出して
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