には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を捉《とら》へては商売の辛らさを言ひ、時には愚痴の涙まじりに盃を重ねるのだつた。しかし、幾が軍治の記憶にもない頃の鳥羽家の様子を話して聞かせる時には、軍治は楽しく聴入るのだつた。父の気難しかつたことを言つては丁度お前に似てゐる、と軍治を指して笑つた。それから又、母が幾の家へ遊びに来た時のことも話して聞かせた。母は煙草が好きで咽喉《のど》が悪いと云つて咳をし乍らも、煙草を手から離さないやうにしてゐるので、幾がそれでは身体に悪からう、と云ふと、母は、病みつきだからこればかりはね、と笑つてゐたが、矢張りあの煙草好も胸を悪くする因《もと》だつたらう――それを話し乍ら幾はどことなく顔を伏せるやうな風があつた。軍治はその時奇妙な不安を感じた。彼の頭には姉から聞いた母の死前後の模様が残つてゐるのである。幾のことがあつたし、母は随分死ぬ迄気にかけてゐたのだ、と聞いた。母の記憶はなく、幾の親味《したしみ》だけが胸にある軍治には、それも唯聞いてゐるだけであつたが、この場合になつて不意に湧き上り、重々しく胸を打つた。意味はよく解らなかつたが、頭の中の物が右と左に引き離され、何か安心してゐられない気持だつた。
ある夜、客が混んで、室が空くまで暫らくの間、二人の男が軍治達の居間に座をとつた。客の商人と、今一人は客を訪ねて来た町の人であつたが、酒を飲み、歌ひしてゐる中にだんだん乱れて来た。冬も夜更けであつたから、軍治は、眠くはあり、隅の炬燵《こたつ》で小さくなつてゐた。傍には蒔が寝てゐた。すると、客の一人は年老いた蒔の寝顔を眺め、卑猥なことを口にした。軍治は炬燵の上に頬を押しあて、眠つた振りをしてゐたのだつたが、かつと胸が熱くなり、起きなほつて男を睨みつけた。しかし、酔ひ痴れてゐる男は軍治が眼に入らないらしく、もう相手の客と何事か笑ひ興じてゐた。軍治は立つにも立てず、蒲団の下で炬燵の櫓《やぐら》をしつかりとつかみ乍ら、ぶるぶる小さい身体を顫はせた。
その頃から軍治は来る客来る客に憎しみを覚え始めたのだつたが、それを幾にどう言つたらいゝものか解らなかつた。肩を張り廊下を踏み鳴らす客、傍若無人に女中を叱りつける客、それに対して、女中はもとより、幾も亦|唯々《ゐゝ》として言ふなりに動きま
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