なに陰気な顔をしているのだろう。彼には普通人のようにものを感じる能力があるのだろうか。もしないのだったらどうしてこんな表情をするのだろう。灰色ばっかりを見ているような眼。彼の重たい沈んだ顔に何か動くものがあるのは、喰物を見たときだけだ。彼は何でも喰べ物でさえあれば一瞥《いちべつ》しただけで、ひょいとびっくりしたように立ち上がる。何か直線的なものがそのとりとめのない表情に現われてくる。そわそわと行ったり来たりする。彼は喰べ物をくれる家の奥さんには絶対服従だ。子供のように何度でも欲しがる。どうかすると、一度すましたお椀《わん》だの箸《はし》だのを洗場へ持って行ったかと思うと、またのこのこそれを持って台所へひき返す。
「あら、今喰ったばかりだよ。何という恰好なの、それ」と奥さんは叱りつけながら笑いだす。彼はまたひょこひょこと、それが癖なのだが、ほとんど前のめりにふらつくようにして、食器を持って引き下がる。
彼にはもう一人|苦《に》が手《て》がある。それは民さんだ。民さんは昌さんを晩になると風呂に入れてやったりするし、けっして働こうとしない昌さんを叱りつけて放牧につれて行ったりするが、昌さんはいつのまにか脱《ぬ》けもどってくる。民さんは昌さんとちがって、僕を見ると人なつこく寄ってきて、その小さな眼に何だか溶けるような笑いを見せて、いくらか涎《よだれ》を吸い気味にいろんなことを話しかける。晩になると、母屋の方へ遠慮しいしい僕のところへ話に来る。民さんの話や、奥さんから聞いたところを綜合すると、民さんは日本橋の大きい問屋の生れで、暁星中学三年まで行ったという。そのころから頭が悪くなって、滝の川学園へ預けられた。滝の川学園というのは僕は知らなかったが、いい家の息子で頭のわるいのを教育する所らしい。民さんはそのころの仲間である名士の子供を二三言った。生家は没落《ぼつらく》して、今では妹の嫁ぎ先きが池袋で果物屋をしているのがあるきりだという。
「一度そこへかえりましたが、またここへつれてこられましたよ。妹の家ではね、妹をおかみさんって呼ばされるんです。わたしが頭が悪いもんですからね、都合がわるいってね。わたしは叱られてばかりいましたよ」
と、民さんは例の溶けるような笑い声で言う。彼はまたその妹の家へやる手紙を書いてくれとたのんだ。母屋へ聞えないようにこっそり言うのだ。
「手紙をちっともくれないが、時々くれ。バタを去年送ったが、それは着いたか。だいぶ温かくなったので、薄いシャツを三枚送ってくれ。それからチョコレートと何か菓子を送ってくれ」
そう言って、
「板チョコ、うまいですからね」
と、この頭の円く禿《は》げた民さんは僕に向って口をすすってみせるのだった。
民さんはしかし毎日の仕事はよくした。もっとも、牛を山へ追い上げてしまえば、牛はそこらで草を食っているのだから、たいてい日中を山で寝て暮すという。だが、酒が好きで、一杯やるときっと脱線する。二三日は帰ってこないのだ。僕のいる間にも、芭蕉イカの大きいのが獲《と》れたので、民さんはそれを持って部落のこの家の親戚まで夜に入ってから使いに出かけたが、翌日の午後になって手ぶらで帰ってきた。途中でやはり牧夫仲間の太郎というのに会い、そのままひっかかって、とうとう土産物のイカを洗いもせずに裂いて肴《さかな》にして喰った上、方々の農家をたたき起して酒をねだり、山で寝てかえったのだ。翌日一日じゅう腹が痛いと言って寝ていた。
「暗らやみで生イカを食ったもんだから、口のまわりをイカの墨で真黒にしたちゅう、なあ民さん。腹痛たはバチがあたったんだろ」
と、奥さんにからかわれて、民さんは悄気《しょげ》かえっていた。
その民さんがある日ひどく怒っていた。どういうわけか知らない。牛小屋の方で奥さんと何か話していたが、いきなり、
「おれはかえる、ばか野郎。こんなところで誰が働いてやるもんか」
と叫んで、後は「ぶるん、ぶるん」というような音を吐きだしながら、背負枠も牛の綱もそこらに放うりだして、その小柄な肩をすさまじくいからせながら、ちょうど僕は庭先きにいたが、こっちへは眼もくれずに小屋へ入って行った。奥さんは苦《に》が笑いをしていた。
民さんと昌さんとは仲よしだとばっかり思っていたが、日がたつにつれそうでないことがわかった。時々、夜になってあたりの寝しずまったころ、ふいに庭の向うの小屋から、二人の争う声が聞えた。民さんが力ずくで昌さんを苛《いじ》めるらしい。何か揉《も》み合うような音も聞える。昌さんが「あーア、あーア」という引っ張った悲しげな声をたてる。昌さんは何かといえば、たとえば牛の綱を持たせられたりすると、よほど牛が恐いとみえてこの声をたてる。彼の唯一《ゆいいつ》の抗議のしかただし、また防禦でもあるらし
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