に迫つてゐる山腹の下方にとりつくと、そこから急に路面も赤土になつて、途中でいくつも屈折した坂路が山を越えて杉倉の方につゞくのである。
夏蚕《なつご》で下葉からもぎとられて行つた桑は、今頭の方だけに汚ならしい葉をのこして、全体に透きながら間の抜けた形で風にゆらいでゐた。その間を房一の乗つた真新しい自転車のハンドルがきらきら日に光つた。
坂路にかゝると、房一は自転車から降りて、押しながら登りはじめた。房一の恰好が円まつちく、不器用な図体であるだけに、自転車にとりついた姿はいかにも重たさうに見えた。十月に入つて間もない日は、自転車の金具の上だけでなく、下方の桑畑の透いて見える根つこにも路のわきの削りとつた赤土の肌の上にも一面にふりそゝいでゐた。
山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついてゐた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいてゐた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めてゐると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせゐか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつてゐた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つてゐる。
それがふしぎに思はれた。
さう、とりとめもない感慨にふけつてゐた房一は、ふと、坂路のずつと上の方でごく小さいピカリと光るものを感じた。自転車で誰かが降りて来るのであつた。それはかなりな速さで茂みの間に現れ、又見えなくなり、やがてまつすぐに見通しのきく曲り角のところに、はつきりと大きく現はれた。銀鼠色のかなりにいゝ品らしいソフト帽が見えた。その下に光る眼鏡、面長な白い顔、ペタルの上で、ブレーキを踏んでゐるチョコレート色の短靴。――
向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしてゐた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。
他に通る人とてはない、この広濶な坂の一本路で、二人はいやでも顔を見合はさずにはゐられなかつた。近づいて来る自転車の車体には房一の往診用の黒革の鞄と同じ格好のものがとりつけられてゐた。房一には相手が誰かといふ見当が今は疑ひなくついてゐた。恐らく、先方にも房一が判つたにちがひない。
二人は間近かで眩《まぶ》しげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「失礼ですが、もしか、あなたは高間さんではありませんか」
「さうです」
二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。
「あなたは、多分――」
房一が云ひかけると
「大石練吉です」
神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つてゐたんですが、失礼しました」
「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出てゐたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つてゐたんですが」
練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでゐた。
練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀《かみそり》があてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出てゐた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
それは房一がこれまでに漠然と想像してゐた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつてゐたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
「わたしの方でも、もう一度こちらから上つて、お目にかかりたいと思つてゐたところなんですよ。――今日はこんな所で、じつさいいゝ案配でした」
房一は持前の人慣れた愛想のいゝ微笑をうかべてゐた。それは水面にできた波紋がゆるく輪をひろげるやうに、彼の厚い醜い唇からはじまつてしだいに、顔全体をつゝみ、つひに容貌の醜さを消してしまふものであつた。
「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」
練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がゐるな、と思つたくらゐですからな」
練吉は今更のやうに、あらためて房一の様子を、その新調の自転車や医者らしい鞄などに目をやつた。すると、それらは今新しく練吉の前に彼の持物と同じものを感じさせ、更に、今まで耳にしてゐたものの、つひぞ気にもとめずにゐた医師高間房一といふ人物がそこに忽然と姿を現してゐるのをいやでも見なければならぬと感じさせた。それは何故かどこかで練吉の自負心を傷つけ気を苛立たせるものだつた。
じつさいに、房一が練吉のことを想像してゐたのと反対に、練吉はたつた今坂路の上から見慣れない、何となく不様なだがともかく彼の注意を惹かずには居れない種類の男がゐるのを目に入れるまでは、全く房一のことは毛ほども考へたことはなかつた。したがつて彼はひどく驚かされた。次には興味を持つた。練吉はその甘やかされ、順調に育つた境遇からして、他人との手厚いつき合ひの心持などは持たうとしたことがなかつた。大石医院の若医師としての境遇は、彼が望んでなつたものでもなければ、苦心して得たものでもなかつた。彼はたゞさうなるやうに生れついた。それをさまたげる事情は何一つなかつた。この自分では大して好んでもゐないし、やむを得ずなつて、やむを得ずまはりから、尊敬を受けてゐる位に考へてゐる医師としての職業は、しかし内実は彼の虚栄心を無意識のうちに支へてゐるものだつた。何故なら他の誰でもがこの町で医者になることはできなかつたし、彼自身は大して好んでゐなくつてもなれたのだ。
だが、さういふことは練吉は今まで考へたことがなかつた。その必要もなかつた。それは単に一つの習慣、彼自身のと云ふより、河原町に張りわたされてゐるあの根深い習慣のおかげだつた。
「これからどちらへ?」
「杉倉まで――」
「往診ですか」
ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
「さうです、一寸」
房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞《は》にかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
と、思はず房一の微笑に釣りこまれて、練吉は気がるな笑顔になつた。いつのまにか、かた苦しい「わたし」から「僕」といふ云ひ方になつたのも気づかないで。
「それでは、又あらためて伺ひます」
「どうぞ」
「や、失礼、おさきに」
練吉は軽く頭を下げながら、相手の房一がいきなり直立不動のやうに足をそろへたのを見た。
彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつてゐた。
「をかしな男だな」
練吉はふつと思ひ出し笑ひをした。それは微笑と云ふよりは、気の好い、何だかすべつこい、いくらか相手を軽蔑したやうな表情だつた。
房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持|阿弥陀《あみだ》に被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つてゐるところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又|疳《かん》の強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
さうだ、あれは見覚えがある。練吉は幼《ちい》さい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼を磧《かはら》のまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしてゐる青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞《やまひだ》にうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さうになつた懸命な眼や、多勢に追ひつめられて溝をとび越さうとして思はず泥の中に足をつゝこんだりしたこと、敵方のはやし立てる明るい声や逃げて行く弱い子の背中にぴよんぴよん動く小さな帯の結び目や若葉のきらめき、河魚の手ざはりと匂ひ――それらの記憶が一瞬のうちに現在の房一の胸に生き生きとよみがへつて来た。それは遠くてつかまへられさうもなく、又すぐ傍にあるやうにも感じられた。
四
坂を上り切ると、路はしばらくごたごたした小山の裾を曲り曲りして、やがて房一の乗つた自転車が心持下り勾配《こうばい》のために次第に速力がついた頃、突然前方に平地が開けて来た。それは河原町から急坂の路を見上げたときに上方にこんな場所があらうとは想像もできなかつたほどの、明い、開濶な平地だつた。房一は一瞬、路をまちがへて全然見当ちがひの所へ出たやうな気がしたほどである。
下方であんなに急峻に眺められた山地は、今この高台盆地の周囲を低いなだらかな松山や雑木山となつて縁どり、その稜線は一種特別に冴えて、空とすぐくつついてゐた。奥地の方にはるかな山並みが盛り上つてゐるほか、何も邪魔物がないことは、宛《あた》かもこの場所が地上にたゞ空とこゝだけしかないといふ感じを起させた。あたりは名状しがたい明さが満ちあふれてゐた。立木の一本一本、点在する人家の白壁や荒土の壁には、まるであたりの明るさを際立たせようとするかのやうにくつきりと濃い形がついて、それは遠くになるだけ鋭くはつきりしてゐるやうであつた。そして、ぢつと見てゐると、その黒い影は黄ばんだ山の斜面に少しづつ動いて喰ひこんでゆくやうに思はれた。
それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつてゐる静寂とそれを支へてゐる平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。
気がつくと、ふしぎな位人影がちつとも見えなかつた。よく乾いた路がのんびりとした曲り工合を見せて前方を走つてゐた。部落のとつつきの石垣の突き出た農家の先を曲ると急に家並びが見えて来た。
房一は昨夜の使ひの者から聞いてゐたので、目指す相沢の家はす
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