ないが、同じ顔が思ひがけなく今度はひよいと突きあたりの壁の横から現はれた。
 房一は来意を告げた。やがて、軽い足どりが聞えたので、さつきの看護婦だとばかり思つて目を上げた房一の前に、頭髪の真白な、稍《やや》猫背の、ぎよろりとした眼つきの老人が立つてゐた。一瞬、房一はこの老医師と目を合はせた。何か剥《む》き出しな、噛みつくやうな眼が房一をぢつと見下してゐた。が、次の瞬間には、それとはおよそ反対な気軽るな声が、
「や、さあお上り下さい。さあ――」
 と、房一を誘つてゐた。

 房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いてゐるやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
「さうですか、さうですか。それは、いや、ごていねいなことで」
 坐につくとすぐ固苦しい挨拶をはじめた房一に向つて、その気重い調子を払ひのけでもするやうに、老医師の正文は口早やに云つた。
 彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つてゐた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいてゐるやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でゐることは房一の目にも見てとれた。
「え、何です、前期と後期とをつゞけさまにうかりましたつて。――ふうん、それやえらいもんですな。なかなか、あの検定試験といふやつは、医学校なんかの年限さへ来ればずるずるに医者になつてしまふのとはちがつて、相当な目に合はされますからな」
 正文は顎をつき出しては一寸笑つて、ふむ、ふむ、とひとりでうなづいてゐた。
 房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出してゐる自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いてゐたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へてゐるやうに思はれた。
 だが、そのとき、この野心の塊《かたま》りのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれてゐたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
 口を切つたものの房一は頭の中でとまどつてゐた。あんなに考へてゐた言葉が今急にどこかへ消えてしまひ、何を云ひ出したのか後をどう云つたものか判らなくなつてしまひさうに感じた。彼はかすかに汗ばみ、そのどちらかと云へば醜いむくれ上つた眉肉や厚い唇が力味を帯び紅ばんで来た。
「それに、永い間この土地をはなれてゐたもんですから、土地の事情にもすつかり疎《うと》くなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つてゐる次第ですが――」
「はあ、はあ」
 正文は黙つて聞いてゐたが、このときふいに今まで前屈みに折りたゝんでゐた背をぐつと伸したやうに思はれた。そして、あの噛みつくやうな眼がぎろりと房一を一瞥した。
 房一は無意識に微笑しながらその眼を迎へた。正文はそこに、医者といふよりはまだ世間慣れのしない弁護士のやうな男が、土饅頭を思はせるやうな円まつちい顔を一種|恭々《うやうや》しげな面持でかしこまつてゐるのを、その厚いふくれた唇が不器用な微笑を浮べてゐるのを見た。それは何となく可笑《をか》しみのあるものだつた。
 思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。
 房一は手答へのないのを感じた。
「どうぞよろしくお願ひします」
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
 向きなほつて云つた正文の声音は穏かではあつたが、その言葉とは不似合な強《し》たゝかな調子があつた。
「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」
「はゝあ」
 房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
「さやうさ。当今では大分|世智辛《せちがら》くなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」
 房一は苦笑した。
 そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしてゐた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。
「ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「はあ、見て参ります」
 彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」
「往診? ふむ、ふむ」
 正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いてゐた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
 稍意地の悪い、きびしい調子であつた。

 房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでゐるのを見つけた。
「おい、今高間君が来てゐたんだよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋《おもや》の方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安心したやうに引つこんだが、しばらくすると又のぞいた。
「ねえ。はやく」
 今度はかるく甘えた、羽毛でくすぐるやうな調子があつた。房一はざぶりと水を顔にぶつかけただけで立上つた。
 診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つてゐた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
「やあ。――こちらへ」
 房一は熱心に愛想よく椅子をすゝめた。
「どこか悪いですかな」
「へえ。ちよつとばかし――」
 男は力なげに口をあけてゐた。
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は? いや、字《あざ》はどこでしたかな――ふむ、ふむ」
 このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
「さあ、一つ拝見しませう」
 房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでゐる、――
「ふむ、ふむ」
 房一は男の前膝部をたゝいた。脚気でもない。心臓は弱つてゐた。単音でなく、微弱な重音があるので弁膜症の気味があるとも診られた。呼吸器に異状はなかつた。一応の診察を終ると、房一は患者の顔から、胴体にかけて、熱心に眺めた。皮膚は弛緩して、生気がなかつた。だが、その極端な貧血と一般的な衰弱とは典型的な寄生虫の症状らしいことにさつきから気づいてゐた。
 尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。ゐる、ゐる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
 房一は患者の前にもどつて来た。
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
 と、ゆつくりはじめた。
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
 男は、びつくりしたやうに房一を見た。
「心臓は多少弱つてゐるが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
 男は面喰つて何を云はれてゐるかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでゐた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「ね、どこも悪くない。だが、その丈夫な身体の中に虫が巣をつくつとる。いゝかね、心臓病とか腎臓病とかいふやうなものではない。虫を駆除する、つまり身体から出してしまへばあんたの身体はもと通りぴんぴんして来る。悪い虫だが、とつてしまへばよいのだから、他の病気よりは性質はいゝと云ふことになる。――判つたかね」
 男は始めにびつくりさせられて、今さう聞くと多少のみこめて来た様子であつた。どこも悪くないと云はれたこともうれしかつたらしい。房一はその腕をひつぱつて顕微鏡の前につれて行き男にのぞかせた。
「ほらね、かういふ形のと、又別にかういふのがあるだらう」
 と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
 患者は満足してかへつて行つた。だが、房一は患者以上に満足してゐた。おれの云ひ方はあれでよかつたかな。もつと噛んでふくめるやうに話して聞かせるんだつたかなと、たつた今自分が云つたり、したことを、もう一度目の前に思ひ描きながら、房一は永い間廻転椅子の中に身をうづめてゐた。
 彼には、何の縁故もないその男が医者としての自分をたよつて来たのが何よりうれしかつた。あの男はおれの一番最初の患者と云つてもいゝ位だ。それがありがたいことにうまく行つたのだ。何しろ、寄生虫にはやく気がついてよかつた。あんな風だと、前に大石医院で診察をうけてゐたのかもしれない。塔の山と云ふのはたしか下の半里ばかりの所から山に入つたあたりだつた、――さう考へてゐるうちに房一はふと昨夜往診をたのまれたことを思ひ出した。
 それは杉倉といふ所から来た。塔の山とは反対に、ずつと上手に河原町を出外れて、それから更に急坂を一里ばかり上つた所の、相沢といふ家だつた。相沢と云へばこの近所では誰も知らぬ者はない、そんな不便な土地でありながら大きな酒造家である。使ひの者が来て、急ぎはしないが明日あたりにでも往診してほしい、と云ふことだつた。房一にはそんな相沢みたいな家から往診をたのまれやうとは意外であつた。

 河原町の上手を出外れると、やはり一帯は桑畑の中を、路はだんだん上り勾配をましながら川から遠ざかつて行くのだが、左手
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