間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦《あせ》つた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつてゐた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはゐたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつてゐた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしてゐるかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つてゐたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つてゐた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけてゐたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へてゐたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた! 今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
 すると、間もなく診察室の方から急ぎ足で出て来た房一は、道平を見るなり、
「ほゝう!」
 と云つたまゝ、もの珍らしげに、しばらく眺めてゐた。それから、相手にその意味が判るやうに微笑をし、目くばせをしながら、
「だいぶ、様子が変りましたな」
 と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
「おう、これか」
 道平は顎髯を剃り落してしまつてゐた。
 昨年の冬あたりから、何を思つたのか彼は写真に残つてゐる先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑《をか》しがられてばかりゐたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつてゐた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにゐても彼が何か云ひたがつてゐることが判つたくらゐで、したがつて彼の身にもついてゐれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれてゐたのである。
 それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこい縮《ちゞ》かんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。
「あら!」
 と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
「どうしませう、ほんとうに! すつかり落しておしまひになつたんですのね。――どうも、さつきから様子がちがふと思つてゐたんですが、道理で!――さうでしたわねえ、お髯がなくなりましたわねえ」
 盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。
「それから、あれだが、今までよう訊かなんだが、――あれは、どうしたもんかの、大石さんの方は?」
 対診に来てくれた練吉のことを気にかけてゐるのだつた。
「お礼ですか」
「さうぢや」
「あれなら、私の方からいゝやうにしときます」
「さうかの。だが、さう云うても――」
 と、道平は明かに盛子に気兼ねをしてゐるらしかつた。
「いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ」
「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」
 云ひながら、道平はこれ又大いに気にかけてゐたことがあつさり片づけられてしまつたので、いくらか不服でもあり、手持無沙汰でもあるといつた様子だつた。
 が、その時、彼はすぐ傍でさつきから盛子がひろげたり畳んだりしてゐる大きな紅い紙の袋みたいなものに目をとめた。
「何かの、それは」
「これですか――?」
 と云つたまゝ、盛子は房一の顔を見てくすりとした。そして、ばさばさ音をたてて大きくひろげてみせた。それは神官の着るやうな袍《はう》だの指貫《さしぬき》に模したものだつた。おまけに、ボール紙で造つた黒い冠、笏《しやく》の形をした板切れ、同じく木製の珍妙な沓《くつ》だのいふ品々が揃つてゐた。
「これを御大典のお祝ひ日に着るんですつて」
 と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。
「ほう、ほんに! みんなある」
 その一揃ひの紙衣裳を見て、道平はまじめに感心した。
「おぢいさん。これを主人《うち》が着るんですよ。主人ばかりぢやない、町の戸主はみんな! それこそ、代人はできないんださうですよ。そして、御神輿《おみこし》の後について町中を行列して歩くんださうですよ。――まあ誰が考へ出したんでせう! さぞいゝ恰好でせう! ねえ」
 房一は擽《くすぐ》つたさうな顔をしてゐた。
「さうか。うちの方では山車《だし》を引いて出るさうだ。それから、みんな紋付に羽織袴といふことだの」
「それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎《あいにく》こはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね」
 京都で行はれる御即位の大典はもう四五日後に迫つてゐたのだつた。その日、陛下は黄櫨染《はぜぞめ》の御袍を召されて紫辰殿《ししいでん》に出御され、大隈首相は衣冠束帯で階前に進み出で万歳をとなへ、全国一斉に称和する予定で、その奉祝の催しでは河原町の各区内がそれぞれ知慧をしぼつてゐたのである。

 そこへは、案内も乞はずに、小谷吾郎が気がるに裏口から入つて来た。
「やあ、来てますね」
 と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像してゐたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌《みそ》だつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりした斑《まだら》に染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つてゐたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。
 その場に居合せた道平を見かけても、小谷はあんまり紙衣裳に気をとられてゐたので、それが大病の後でやつと起き出した珍しい姿だといふことに心づかなかつた。が、大分たつて思ひ出した小谷は、
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
 と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳《くろめ》がちな眼を道平に向けた。
 すると、道平の半ばひきつゝた表情の中には、又あの悦ばしさが、かうして歩いて来たことを人に見られるといふ満足が、ゆつくりと、何だか紙のずれるやうな工合に上つて行つた。
「もう、だいぶようなつたですわ」
 と、彼は恐しく手まどつて答へた。
「お髯がなくなりましたわ」
 と、盛子が傍から又さつきのをかしさを思ひ出したらしく、そつと注意した。
「はあ! さう――ですね」
 小谷は髯のことなんかはよく覚えてゐなかつたので、曖昧に、気のない返事をした。道平は、さつきは盛子に紅くなるほど笑はれて多少気を悪くしたことではあるが、こんな風に自分が元通りに恢復し、房一の家の縁側に腰を下し、やつて来た人から何やかと話しかけられることに一種のまごつきと期待を現しかけた。だが、小谷には何の反応もなく、その目は又紙衣裳の方へ帰つた。
「もう着てみましたか」
「いゝや、まだ」
 とてもそんなことは! といふ風に房一は答へた。
「一つ着て見せたらどうです? 高間さんにはきつと似合ひますよ」
「まさか!」
 だが、さう云つてすゝめる当の小谷には、その細面の小柄な様子には、何でも似合ふやうなところがあつたので、この紙衣裳さへ似合ふにちがひなかつた。小谷は何とかして、この場で房一に着させよう、その効果を楽しまうと考へてゐるらしかつたが、房一が相手にならないので、話を他に持つてゆき、いきなりこんなことを云ひ出した。
「誰でも主人が出なくてはいけないきめ[#「きめ」に傍点]でせう。すると、千光寺さんはどういふことになりますかね。坊主が神主の恰好をするのもをかしなもんぢやありませんかね!」

     三

 その日、河原町では早朝から何かしらざわめいてゐた。町の裏手に迫つてゐる山々はちやうど東側にあたつてゐたので、朝の日は河原町の上に光を投げて家々の白壁を明く浮き上らせる前に、町の西方にひろがつた盆地の端に低く長く横はつてゐる小高い丘陵地(それは最近切り倒された雑木山であるが、町からはかなり遠いので、何だかそこだけが茶褐色の埃を浴びてゐるやうに見えた)に最初の薔薇色の光を投げかけた。空にはきれぎれの雲が浮かんでゐた。それはどこを向いて流れてゐるとも判らないほどゆつくり動き、動くにつれてだんだん形を変へ、うすれ、又新しい雲がどこからか生れてゐたが、それもゆるゆると消えて行くのであつた。
 かうして、びつくりするほど冴えた、明い日がやつて来た。いや、それは昨日も一昨日もその前も、かういふ日がつゞいてゐた。だのに、やはり、今日又新しく特別にとび切りにやつて来たとその度に思はせるほどの快い日だつた。どこもかしこも透き通るやうで、はつきりし、乾いた空気がふはりと頬のあたりに触れ、どこからかつんとする気持のいゝ山の匂がやつて来た。
 その中を、子供達はまだ朝飯がすまないうちから通りへ出て、軒から軒へ筋交《すじか》ひに張りわたされた小旗の下を駆けまはり、叫び声を上げ、蝋燭に火の入らない日の丸提灯が伸び切らないで尻を持ち上げたまゝぶら下つてゐるのを眺め、家ごとに定紋入りの大提灯が板屋根のついた台と共に立てられ、鳳鳳のついた万歳旛《ばんざいばた》とがずらりと列をなして並んだ様を片目をつぶつてどこまでつゞいてゐるかすかし見たり、一々数をかぞへてゐたりしてゐた。そして、犬までが子供達のさわぎに釣られて走り、きよときよとし、又走り出してゐた。
 午近くなつて空気は温められてどんどん上昇し、どこも冴えてきらめき、何か軽い気を遠くさせるやうな気配は、あ
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