た、紺の前掛でもした男を想像してゐたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。
 ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」
 と云つた。
 それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにゐた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。
 職業柄人見知りなんかはしてゐられないし、又さういふことにかけては密《ひそ》かに自信を持つてゐた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
 殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見てゐる間中、ちつとも目瞬《またゝ》きをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずに
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