ですが」
 練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでゐた。
 練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀《かみそり》があてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出てゐた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
 それは房一がこれまでに漠然と想像してゐた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつてゐたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
「わたしの方でも、もう一度こちらから上つて、お目にかかりたいと思つてゐたところなんですよ。――今日はこんな所で、じつさいいゝ案配でした」
 房一は持前の
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