だよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋《おもや》の方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安
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