汗ばんでゐるやうな気がした。慌《あわ》てないで、さう自分に云つた。
 だが、房一よりも堂本の方がもつと慌ててゐた。彼はいきなりそこに痩せた身体をしやちこ張らせてかしこまると、
「へえ、いえ」
 と、何か文句にならないことを口の中で云つて、もう一度低いお辞儀をかへした。
 その様子が房一に余裕を持たせた。彼は東京の代診時代に覚えた世間慣れた快げな微笑を浮かべることさへできた。
「お忘れかもしれませんが、高間道平の息子でございます。――今度、医者としてこの町へ戻りました者で――」
「へえ、――どうもごていねいなことで――」
 まだぎこちなく坐つて伏目に固くなつてゐる堂本の様子から、自分が誰かといふことは判つてはゐるのだなと思つた房一は、
「や、それでは――」
 と手早く切り上げて、堂本の家を出た。
 そこから元来た路を引き返した房一は、行きがけには通りすぎた千光寺の山門を潜つた。広い人気のない寺庭には九月の日が明く冴えて、横手の庫裡《くり》に近い物干竿では真白な足袋が二足ほど乾いてぶら下つてゐた。そのしんとした庭の中をまつすぐに庫裡の方へ横切つてゆくと、いきなり
「やあ」
 と云ふ疳高《か
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