もしないで口をもごもごさせて突立つてゐるのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
「先生お帰りになりましたかね」
 見たことのない顔だつた。患者なら玄関から来る筈だ。
「えゝ、まだですが――何か御用?」
 張りのある、いくらか甘えやかな、跳ね上るやうな盛子の声を、その男はいかにも耳珍しげに一つ一つとつくりと聴いてゐるやうな様子でゐたが、そして台所からさす電燈の明みの中に立つた盛子をまじまじと眺めながら、その遠慮深い調子の中に急に溢れるやうな親しみを浮べた。それは何だかこの男が幼い時分の盛子をよく世話してくれて、何十年かたち、今ふたゝび盛子を前にして昔を思ひ出した、とでも云つた様子だつた。
「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」
 今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいてゐた。
 若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。
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