射撃なんてものは昔はなかつたもんだが、こなひだの競馬は僕も見たけれども、子供の時以来十何年ぶりのわけだが、あれはちつとも変つてゐないね。優勝の景品が米俵だなんてね」
「去年はなかつたんですよ。何でも博労《ばくらう》同士のうちわ揉《も》めがあつたとかでね」
と、小谷が云つた。
「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」
房一は目を輝かせて云つた。
「なに? 競馬のこと?」
と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へてゐたのだらう。
「僕はクレーが済んでから行つたんでね、もう終りで相沢の馬が勝つところだけをちよつと見たよ。――相沢、得意さうだつたぢやないか」
「御機嫌だつたね」
さう答へながら、房一はふいに、競馬場で会つた相沢のことを、そのとき彼が何だか意味ありげに云ひのこして去つた言葉を思ひ出した。
房一は早くから競馬を見に行つてゐた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来てゐることを教へた。席が混んでゐたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張《よしずば》りの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいてゐた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
「やあ」と、目で挨拶して何気なく行き過ぎようとすると、相沢は殆ど判らない位に軽く房一の腕にさはつて引きとめた。そこは拝殿からも馬場からも大分離れた場所だつた。あたりに人はゐたが、顔見知りはなかつた。相沢はあなただけに、といふ風な一種秘密げな顔をしてゐた。房一は殆ど直覚的に、それが訴訟に関係したことだ、と悟つた。あの訴訟については、昨冬以来相沢は度々地方裁判所のある市に出かけ、鍵屋の方でも弁護士を立てて一二度審理があり、証人の申請があつたとかいふやうな話を、房一も聞いてゐたが、鍵屋の方では口を緘《かん》して語らないし、成行は他の者には少しも判らなかつた。その噂の最初がやかましいものだつたにかゝはらず、何にしろ事件はこの土地からはるか離れた所で遅々として進んでゐるのか停滞してゐるのかわからない位であつたから、いつとなく遠耳になつてゐた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはゐられなかつたのである。
「あのね、何ですよ――」
と、云ひかけたまゝ、相沢の黒味の多い眼はぢつと房一の顔をのぞきこみ、云ひかけたものがその中で煙つてゐるやうな表情をした。
「はあ」
と、房一は自然と紅黒い顔をひきしめた。相沢は随分永い間、それこそ房一がうんざりするほど永い間こつちをのぞきこんでゐたが、
「いや、そのうち。――ぜひ御相談があるんですが。――そのうち、一度来ていたゞいて。いや、私の方から出かけませう。や、又――」
と、さつき目にもとまらぬ速さで腕にさはつたときと同じく、軽くすつと身をひくやうにしたかと思ふと、もう背を向けてそゝくさと葭子張りの便所に入つて行つた。――
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じてゐたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつてゐた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残してゐた。
「あの訴訟はどうなつたのかね」
と、房一は小谷に向つて訊いた。
「なに、訴訟?」
この時、練吉が又小耳にはさんで訊き返した。が、明かにそれはさつきの小耳訊きとは様子がちがつてゐた。殆ど一人で盃を傾けてゐたせゐもあるが、つい今まで沈んでゐた練吉は僅かの間に一足とびに深い酔の中に入りこんでゐた。
「どこの訴訟だ。なに鍵屋、うん、相沢か」
練吉の額は今青いと云ふより磁器のやうな冴えた白さに変つてゐた。目瞬きはぴつたりととまり、線を引いたやうな切れ目が深く長く、宛《あたか》も部厚い眼鏡そのものに入つたヒビ割れのやうに見えた。そして、
「なあんだ、まだ訴訟してるのか」
と、無邪気に、呆《あき》れたやうに云つた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
「まだ? ふん! よせ、よせ。阿呆らしい」
練吉は顔をしかめ、手を振つた。
「おれは!――」
と、何か威勢よく云ひかけたときだつた。小谷は急に聞耳をたてた。小谷ばかりではない、房一も――半鐘が鳴つてゐた。たしかに! それは、はじめ三連打を二度ほど、ちよつと途切れ
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