れぬ線の粗《あ》らさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。
「さういふあんたはどなたで?」
と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつてゐた。
房一はその時、これは思つたより以上に面倒だな、と感じた。この場だけを円めればいゝといふわけにはゆくまい、云ひがかりをつけられるかもしれぬ。それから、徳次をこの場から去らせても後で鬼倉の配下の者に狙はれるかもしれぬ、といふことを突嗟《とつさ》に考へた。彼は腹をきめた。そして、相手の顔に目をつけながらゆつくりと答へた。
「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」
「あゝ、お医者?」
と、鬼倉は意外に思つたらしい。小首をかしげてゐたが、
「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者《もん》が度々御厄介になつとる先生ですかな」
「さうです、小倉組の方ですな」
「や、さうでしたか。それは――」と、鬼倉は目に見えて和《やは》らいだ。
――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」
そんな風におぼえてゐてくれるとは思ひがけなかつた。
うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。
「いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい」
「いや、いや」
と、鬼倉はすつかり他意のない様子で答へた。
そして、食卓に突き立てたまゝになつてゐる短刀を、火箸か何かつかむやうな、無造作な素速い手つきで抜きとると、鞘におさめて腹帯の内側へ入れながら、
「かういふ玩具《おもちや》のやうなものを出して、年甲斐もないことでした」
と、云つた。
その短刀は、房一が入つた時すぐと目を射たものだつた。そして、今の今まで、彼は絶えずその不気味な輝きをすぐ傍にしながら、わざと目に入らない風を装つてゐたのである。とは云へ、彼も亦こゝへとびこんだ瞬間から、一種の無我夢中だつたことは間違ひない。その刃が静かに鞘の中に滑りこむのを目にした時房一ははじめて背筋がひやりとするのを覚えた。
第四章
一
八月末の思ひがけない冷気の後で又暑さがぶり返し、それは永くつゞいて、もうがまんがならないと云ふ頃に一寸色目をつかつた風に凌《しの》ぎ易くなつたが、それも一日か二日で又もやぶり返し、今度は前ほどではないにしても緩漫に、のろのろと、いつまでも同じやうな暑さの日がつゞいて、九月に入り、九月の半ば過ぎてもまだちつとも初秋らしい気配は見えなかつた。あの夏も頂点を過ぎたのだと思はせたやうな草木の黒つぽさも何かの間違ひ恐らく人間の希望的観測といふやつだつたのだらう、その黒い沈んだ色さへ不機嫌さうにいよいよ黒つぽく見えた。
が、或る日切つて落したやうに、例外だといふ風に、一日だけ何だか季節がためらつたやうに暑くも涼しくもない日があつたかと思ふと、次にはあの初秋の前触れである強い南風が吹いた。それは暑いといふよりは何だか蒸《む》し蒸《む》しする、騒々しい、遠く起つたかと思ふとすぐ間近かにやつて来、草木をなびかせ、捲き、吹きつけ、魂をゆすぶるやうな大きな小止みのない風だつた。それは風と云ふよりは何か素晴しく太いものを感じさせる大きな物音だつた。まさにその通り、はじめは笹鳴りをさせ、立木の枝を唸《うな》らせ、戸をがたつかせ、埃を広い幅で駆けさせてゐたものが、しまひにはそれらをたゞ下界の騒々しさといふ中に押しこんでしまひ、圧《おさ》へつけ、自分ははるか中空をもつと高い方を何ものにも遮《さまたげ》られることなく悠々と巨大に傍若無人に吹き抜けて行くのであつた。それは風ではなく季節の通り過ぎる音だつた。やがて雨を伴ひ、あらゆる物の上にたゝきつけ、浸みこませ、溢れさせ、一日か二日でけろりとし、青い空をのぞかせ、それでもなほ切れ切れの雲を、疾《はや》い怪物のやうな想像しきれぬ形の雲をひつきりなく走らせて、おれはまだ完全に通り抜けてはゐないぞ、気をつけろ、と知らせてゐるやうに見えた。
かうして、やつとこさ初秋の爽かさがやつて来た。が又、風だ。生温い、暑さのぶり返しを思はせる蒸し蒸しした空気、雨、それから青空、微風、快い乾いた空気、――こんな風にためらひ、一寸後もどりをし、又急ぎ足で駆け、季節は人々に型通りの見込をさせまいとするかのやうに見える、がその足どりの中には何か大まかな順調さが、あの自然といふものの単純な変化が歴然と現れて来る。人間が見込を外《はづ》されてぽかんとしてゐる間に、いつしか十月に入り、十月も終りに近くなり、あの快い乾いた、いくらか冷えを感じさせる明《あかる》い空気が、毎年のことであ
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