れはゴマ塩頭の薄いメリヤスシャツの上に夏背広をぢかに着こみ、巻ゲートルに短靴をはいた、初老に近い痩せ身の男だつた。
「おい、ビールをくれ」と、しやがれた低い声で云ふと、土間の安テーブルの前に腰を下した。
 この男が入つて来たとき、徳次の仲間だつた二人の馬喰は急にぴたりと話をやめた。そして、落ちつきのない眼で時々そつと男の方をぬすみ見た。男はぢろりと一瞥した。それは荒い皺が隈取りのやうに走つてゐる顔だつた。だが、それきり三人の方を見ようとはしなかつた。
 馬喰達はそつと肱をつゝき合つた。徳次は「鬼倉」といふ言葉を聞いた。そのとき、彼のきよろりとした、酔つた眼の中には、突然いかにも心外さうな、又跳ね上るやうな色が動いた。彼はちよつとぐらりとし、目をつむり、それからぐつと男の方を挑《いど》むやうに眺めた。馬喰達は小声で、出よう、と云つた。が、徳次はきかなかつた。もう一度大きく上半身をぐらりとさせ、大声で、
「いや、わしは出んぞ」と叫んだ。
 男はその時、案外なほど寂しみのある表情を浮かべ、頬杖をついてぼんやり戸口の方に顔を向けてゐたが、眼だけをちよつと動かせた。だが、知らぬふりでビールを口へ持つて行つた。
 馬喰達は出て行つた。徳次は残つた。一人でぶつぶつ云ひながら、宛かもそれで勇気をふるひ立たせようとするかのやうに、さかんに身体をぐらぐらさせた。その度に、彼の敵意は露骨になつていつた。橋本屋の主人は何とかしておとなしく引上げさせようと骨を折つた。が、それはかへつて徳次を興奮させた。主人の引きとめる手を払ひのけながら、彼はつひに鬼倉の前にどかりと坐りこんだ。
「きさまか、鬼倉ちふのは」
「なに?」
 鬼倉は低い声で、はじめてぢつと相手を見た。が、それつきりだつた。動きもしない。徳次は何故ともなく一寸ひるんだ。が、又、
「鬼倉ちふのはきさまかと云ふんだよ。あんまり、この近所の者をいためてもらひますまい」
「いためた?」
 鬼倉は一瞬、相手を地着きのごろ[#「ごろ」に傍点]か何かと思つたらしい、一種の殺気をひらめかした。
 徳次は又ぐらりとした。
「さうよ。てめえはその大将だらう」
 それは何となく「素人《しろうと》くさい」滑稽な云ひ方だつた。手こずつた主人がしらせたので、徳次の家からは家内のときが駈けつけて来た。泣いてとめた。半ば耄碌《もうろく》した父親も足をひきずつて来た。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめは煩《うる》さがつてゐた鬼倉もたうとう脅《おど》すつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつてゐる気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。
「さあ、殺せ。――うむ、え、さあ。――え、え」

 ふいに、徳次はしたゝかに横頬を殴られるのを感じた。容赦のない力が彼の首すぢをつかまへ、又やられた、一つ、二つ。それは、突然うしろからやつて来た。何だか判らなかつた。そして、抵抗するはずみを失ひ、きよとんとして見上げた。
 そこには、房一の紅黒い、怒張した顔があつた。いつのまにやつて来たのだらう、徳次はぎゆつと片手で押へつけられたまゝだつた。そして、房一の怒声を聞いた。
「きさま! あれほど云つたぢやないか。何んだこの真似は!」
 徳次は気が抜けたやうに、口のあたりをもごもごさせるきりだつた。
 何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取《くまど》りのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いてゐた。
「どなたか知りませんが、この男が御騒がせしたさうで、御無礼でした」
 房一は鬼倉に向つて叮重《ていちよう》に云つた。
 相手はさつきから黙つて、房一と徳次の様子を眺めてゐた。さすがに気が立つてゐるらしく、節くれだつた手首を食台の上でこねるやうに動かしてゐた。そして、徳次よりもはるかに手答へのあるらしいこの男が何者か見究《みきは》めようとして、どこか気を配つた様子だつた。
 そこに、房一は、酒のために紅くなつてはゐるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはゐるが、稍《やゝ》前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見ら
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