るらしかつたが、南洋占拠をのぞいては格別報道されることもなく、したがつて欧洲大戦による日に上昇する好景気の他には、戦争をしてゐる気分は殆どなかつた。
 とにかく、それは遠い向ふで起つてゐることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒《あ》ばれまはつてゐるんだつてね。それがちつとも捉《つか》まらないと云ふから面白いねえ」
「うむ、うむ」
「それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君」
 練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
「――さうだな」
 房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられてゐた。

 老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めてゐる農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしてゐたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。
 しかし、さういふ身体の忙しさより何よりこたへたものは、房一にとつては肉親の大病を診察するといふはじめての経験だつた。
 彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つてゐた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつてゐることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察してゐる間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしてゐる道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つてゐた。
 だが、房一はそれを感ずれば感ずるほど、何かしら云ひがたい不安を覚えた。それは、病症の不明な患者に対するときに間々あるやうな技術的な不安ともちがつてゐた。一種肉体的な恐怖、とでも云ふやうなものだつた。
 父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつてゐる、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めてゐるのを感ずる。はだけた胸に生えてゐる一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥してゐるために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色の痣《あざ》のやうにぽつりとひろがつてゐる乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れてゐる「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れてゐたもの、隠れてゐたもの、眠つてゐたもの、この露《あら》はになつた肉体と房一との間に結ばれてゐるあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だか後《うしろ》めたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。
 彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。
 盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでゐた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはり[#「つはり」に傍点]だつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意してゐる様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではゐないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはゐないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。
 房一は慌てて、診察にかゝつた。その後で彼は云つた。
「どうもおれは、身近かな者だと平気で診られないんだね」
 済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべてゐた。それは何だか、嫌な仕事をさ
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