だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染《なじ》まなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめてゐた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめてゐた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられてゐた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしてゐた。そこと正文夫婦の住む母家《おもや》との間には一見して判る気風の相違が現れてゐた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられてゐた。
「ふうん、それもよからう」
練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つてゐた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認してゐたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れてゐた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意してゐた。
だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げてゐた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしてゐた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情も宛《あたか》もとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。
「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでゐた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老《とし》よりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
「ふむ、ふむ」
練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いてゐた。
房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
「いや、危険はまづない見込だ。だが、何と云つたらいゝか――」
その時、突然練吉は、房一がさう云ひかけたまゝ当惑した表情になつたのを見た。
「なにしろ、迷ふんだな」
房一はいかにもそれがやり切れない、と云つた風に吐き出すやうに云つた。つゞけて、
「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」
実際、練吉の滑つこい気持よくふくらんだ頬には、その時ちらりとした微笑の影がさしてゐた。
「いや、さういふことは人によつてはあるんだよ」
と、練吉は急いで云つた。
「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」
「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
練吉は立ち上つた。正文の代りに往診をたのまれてもあんなにいやいやだつたにもかゝはらず、今の彼はまるで打つて変つた気軽るさだつた。
五
風はすつかり途絶えてゐた。
もう日盛りの時刻はとつくに過ぎてゐたとは云へ、半ば傾いてそのためによけい濃くなつた日ざしは河原町の上に、それに沿つてゆるく曲つた川、周囲の山地の上に、こゝぞといふ風に照りつけてゐた。
そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめてゐるやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしてゐた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来てゐる九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせてゐた。
「ドイツの潜航艇が又イギリスの商船をやつつけたさうですね。――なにしろ海の底をもぐつてゐて、ぽかつと出てくるんだからねえ、やられた方ぢやさぞおつたまげるだらうなあ」
練吉はさつきから一人で喋つてゐた。
ドイツ潜航艇の英商船撃沈はその年の一月頃からはじまつてゐた。日本も交戦国の中に入つてゐたにちがひないが、商船の被害も大したことはなく、日本の艦隊は太平洋方面に出動してゐ
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