この報告はもつとくはしく、もつと飛躍しただらう。
「それからね」
 と、今泉は一寸声をひそめた。
「捕虜が内地へ送られるさうだよ」
「ホリョ?」
「うん、ドイツ兵の捕虜だ」
「へーえ」
 今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでゐた。
「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩《てく》で通るんかね」
 徳次はさきほど今泉が姿を現したずつと先の稍持上つて見える路面の白い輝きの方を、今にもドイツ兵達がぞろぞろ群をなして出て来るかのやうに眺め、それから熱心に今泉の眼の中をのぞきこんだ。
「え、何だつて、徒歩《てく》で通るかつて?」
 今泉は面喰つてこれも徳次の眼の中をのぞきこんだ。二人の間には恐しく判りにくいものが突然はさまつたやうに思はれた。
 徳次はしばらく考へてゐた。
「それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね」
「あ、ちがふ、ちがふ。さういふんぢやないんだよ。この辺へ来るわけぢやないよ。船は船だらうが、四国の松山といふ所へ収容所ができるらしいんだな。そこへ運ばれるんだ。――こんな所を通るわけぢやないよ」
 今泉にはやつと徳次の考へてゐることが判つたので、熱心に説明した。
「さうかよ。おれは又、河原町を通るんだとばつかり思つた」
 徳次はきまり悪げに、しかし、又あのきよろりとした眼つきにかへりながら云つた。
 対島《つしま》沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれてゐると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げてゐるとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにゐる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋《わらぢ》ばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。

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