た、紺の前掛でもした男を想像してゐたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。
 ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」
 と云つた。
 それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにゐた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。
 職業柄人見知りなんかはしてゐられないし、又さういふことにかけては密《ひそ》かに自信を持つてゐた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
 殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見てゐる間中、ちつとも目瞬《またゝ》きをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはゐられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつてゐるのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えてゐたわけではないが、その眼玉は一体何を考へてゐるのか判らないやうな気が房一にはした。
「お噂はうけたまはつてゐます」
 その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。
「いや、どうも。恐縮です」
 突然だつたので、房一は思はずその醜い顔に紅味をうかべながら、軽く頭を下げた。その拍子にごく自然に眼玉と真向ひになる位置を外した房一は、さつきから気を引かれてゐた馬の方をちよいちよい眺めやつた。
「なんですよ、あんまり貴方《あなた》の評判がいゝもんですから、さういふ方ならぜひ一度|自宅《うち》でも診ていたゞきたいと思ひましてね」
 どういふ加減からか、それを云ふ時、相沢はぐつと又相手の顔をのぞきこんだ。それは
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