心したやうに引つこんだが、しばらくすると又のぞいた。
「ねえ。はやく」
 今度はかるく甘えた、羽毛でくすぐるやうな調子があつた。房一はざぶりと水を顔にぶつかけただけで立上つた。
 診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つてゐた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
「やあ。――こちらへ」
 房一は熱心に愛想よく椅子をすゝめた。
「どこか悪いですかな」
「へえ。ちよつとばかし――」
 男は力なげに口をあけてゐた。
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は? いや、字《あざ》はどこでしたかな――ふむ、ふむ」
 このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
「さあ、一つ拝見しませう」
 房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでゐる、――
「ふむ、ふむ」
 房一は男の前膝部をたゝいた。脚気でもない。心臓は弱つてゐた。単音でなく、微弱な重音があるので弁膜症の気味があるとも診られた。呼吸器に異状はなかつた。一応の診察を終ると、房一は患者の顔から、胴体にかけて、熱心に眺めた。皮膚は弛緩して、生気がなかつた。だが、その極端な貧血と一般的な衰弱とは典型的な寄生虫の症状らしいことにさつきから気づいてゐた。
 尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。ゐる、ゐる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
 房一は患者の前にもどつて来た。
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
 と、ゆつくりはじめた。
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
 男は、びつくりしたやうに房一を見た。
「心臓は多少弱つてゐるが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
 男は面喰つて何を云はれてゐるかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでゐた。たとへ病気がは
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