を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしてゐた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。
「ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「はあ、見て参ります」
 彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」
「往診? ふむ、ふむ」
 正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いてゐた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
 稍意地の悪い、きびしい調子であつた。

 房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでゐるのを見つけた。
「おい、今高間君が来てゐたんだよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋《おもや》の方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安
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