いちじゆく》の樹がぼつさりと茂つてゐた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。
右手の台所の方ではしきりと物音がしてゐた。道平より先に朝早くから手つだひに来てゐる房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしてゐるのだつた。
「これはどこに置きますかね、この漬物桶は。――はい、はい。どつこいしよ、と」
人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつり[#「丸うつり」に傍点]になつたものらしい。だが、道平の声音《こわね》はあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしてゐるやうであつた。
その二人の働いてゐる所にはまだ形こそはつきりとはしてゐないが、内部ではもうこゝだけに見られる家庭生活の気分といふものが生れて居て、その特殊な雰囲気がひつきりなしに流れて、徐々にこの空洞のやうな乾いた家の中にその匂ひを浸みこませて行くやうに感じられた。
道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐《あぐら》をかいた。
だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。
それは言葉にするとこんな風なものであつた。
「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つてゐる方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結
前へ
次へ
全141ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング