たからである。そして、柵の向ふでは、相手になつてゐる男のうしろに出張所側の連中がかたまつてゐた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけてゐた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
「おい、やつは所長だぜ。まだ新任で、来たばかりなんだ。――行かう!」
何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がゐた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫してゐた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。
「何しに来た!」
「何しに来た?」
と、いきなり突きを喰はされた練吉は、神経的にさつと青ざめながら、反問した。
喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
「君達は一体何者だ!」
喜作は、
「何者かつて云ふが、そもそもこゝで半鐘をたたいたから集つて来たんだぜ」
と、案外冷静に云つた。
「いや」
と、房一が進み出た。
「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」
房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。
「それは、小規模な演習だからして居らん」
「ふむ、さうすると――」
さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつてゐた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟《とつさ》に身をひるがへして土手づたひにその方へ走つてゐた。彼は一
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