だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染《なじ》まなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめてゐた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめてゐた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられてゐた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
 練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしてゐた。そこと正文夫婦の住む母家《おもや》との間には一見して判る気風の相違が現れてゐた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられてゐた。
「ふうん、それもよからう」
 練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つてゐた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認してゐたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れてゐた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意してゐた。
 だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げてゐた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしてゐた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情も宛《あたか》もとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。

「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
 練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでゐた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老《とし》よりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへん
前へ 次へ
全141ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング