鉢で温めた。それは静かな家の中でたゞ一つの物音のやうにかたことと音を立てて煮えた。何となく、盛子は小さい娘時分のおまゝ事を思ひ出した。そして近来そんなことを一度もしたことはなかつたのだが、小娘のやうな気になつて、煮え上るのを待つ間横坐りに足を投げ出して煮える音を聞いてゐた。
 ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
 一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑《をか》しがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。
 そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。
「随分早いのね」
 さう云ひながら、盛子はゆつくりと喰べてゐた物がまだ口の中に残つてゐるような無邪気な顔をした。
「ふん」
 房一は怒つたやうな嘲《あざ》けるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついてゐた。
「どうしたんですの? 何かあつたんですか」
 盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつてゐるやうな無邪気さは消えてゐた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
「途中から帰つて来たんだよ」
 房一はむつつりとしたまゝ答へた。
「途中から――?」
 房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
 肉が部厚に盛り上つてゐるために自然と深くできた額の横皺、稍《やゝ》動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出してゐる円い確《し》つかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へてゐたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
 盛子は時々半ば無意識に呟いた。
「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」
 こんな風に「円い」――のだらうか。いや、それはどうでもよかつた。盛子はそこに房一を感じてゐた。それは房一の醜い他の部分を忘れさすに足るものだつた。
 が、ひどく不機嫌になつ
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