s場を見、郊外の国境を越えてちょっとすぺいん領へ這入り、山下の道を一巡して帰船する。
出港後間もなく、岬をかわしたところで、横浜からマルセイユを経て来て、これから倫敦《ロンドン》へ行こうとしている同じNYKのH・Z丸に出会した。巨船二艘、舷々|相摩《あいま》さんばかりの壮観である。
往き大名と帰り乞食が洋上に挨拶する。マストに高く信号旗がひるがえるのだ。
赤と黄の斜《ハス》の染分け・白に青の先が切れ込んだの・赤白青の縦の三色――この三旗はそれぞれにO・A・T羅馬《ローマ》字を示し、O・A・Tはここに一つの意味を綴る。I am glad to see you,「お眼にかかって嬉しい」というのである。これに対する応答――T・D・Lの三つの旗。即ち Bon Voyage !「安全なる御航海を祈る」。
同時に相方《そうほう》で、Y・O・Rの旗を上げる。「多謝《サンキュウ》」である。そして、擦《す》れ違う。
海の通行人は騎士のごとく慇懃《いんぎん》だ。が、全船員は各自その船べりに重なり合って、船同士の儀礼を破壊して日本語で叫びかわす。
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わあい!
やあい!
しっかりやってこううい!
ばかやろううっ!
さきへけえるぞううっ!
うまくやれよううっ!
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ジブラルタルから馬耳塞《マルセーユ》まで――六九七|浬《カイリ》。二日と一時間五十分。
マルセイユ――「世界悪」の輸出港。朝は灰色、正午《ひる》は暗く、夜は明るい市街。雨で蛇の鱗《うろこ》のように光る歩道。それを反映して赤い空。キャナビエルの大街。裸女見世物の勧誘人。頬の紅い女達の視線。酔ってふざけ散らして歩くP・Oの水夫連。はだか人形を並べた煙草屋の飾窓《ウインドウ》。MATTIの緑色タキシ。ヴォウ・ポルトの入江の帆柱。花環を担いだ男たち。笑って来る陽やけした女の一軍。点々と彼女らの腕から溢れる花。諸霊祭の夜。ケエ・デ・ベルジェの混雑。シャトオ・ダフ往きの小蒸汽船。星と街灯に装飾された新聞|売台《キオスク》。ジョリエットや聖《サン》ラザアルの貧民街から出て来る船乗りの遺族たち。海岸の木棚の共同墓碑。「故何のたれ――海で死んだ。その父のごとく、また祖父のごとく。」午後は満潮を待って花流しの式。毎年の例。長い桟橋の列。重い貨物自動車の縦隊運動。後からあとからつづく満員電車。石炭の山。荷物の丘。塵埃《じんあい》の塹壕。汗をかく起重機《クレイン》。耳を突く合図の呼子。骸骨のような貨物船。赤く錆《さ》びた鉄材の荒野。鳥打帽をかぶって首に派手な布を巻いた波止場の伊達者。眼の円い労働者たち。脚の太い駄馬の下を潜《くぐ》って遊び狂う子供らの群。蒼いアウク灯の堵列《とれつ》。鎖の音。汽笛。マンドリンで「君が代」を奏しながらH丸の下で投げ銭を待つ伊太利《イタリー》人の老夫婦。ドックに響く夜業の鉄鎚《てっつい》。古着と安香水を売りに船へ来る無帽の女。尼さんの一行。白衣《びゃくえ》の巴里《パリー》ベネデクト教団。黒服の聖《サン》モウル派。ノウトルダムの高塔。薄陽《うすび》。マルセイユ出帆。
錨を上げる。
ナポリまで四六二|浬《カイル》。一日半の地中海だ。
5
砂漠・暑い風・油ぎった水・陽に揺れる遠景・金属製の塔壁《パイロン》・伸び上ったり縮んだりする起重機の媚姿《ポウズ》・その煽情的な会話――かた・かた・かた――と、黒い荷船の群集・乾燥した地表の展開・業病に傾いた建物の列・目的のはっきりしない小船の戦争・擾乱と狂暴と異臭の一大渦紋・そのなかを飛び交すあらびや[#「あらびや」に傍点]語の弾丸・白い樹木・黄色い屋根・密雨のような太陽の光線――PORT・SAID。
ポウト・サイド。
倫敦《ロンドン》から三五八八|浬《カイル》。十一日二時間五十分。
横浜まで八四七〇|浬《カイル》。三十六日。
西洋の出口であるこの奇妙な門は、同時に、東洋への入口のより[#「より」に傍点]奇妙な門である。だから、PORT・SAIDは、白・黒・黄・赤の各人種によってアラビヤ風に極彩色された、二面神の象徴模型なのだ。
スエズ運河はここからはじまる。
『明朝早くポウト・サイドに着きますが、入港と同時に石炭の積込みを始めますから、今夜おやすみになるまえに窓を閉めたほうがいいでしょう。よく忘れて開けて置いたため、窓から石炭の粉が舞い込んで、部屋じゅう真黒になった人があります。』
と、昨夜の食卓でナイフとフォウクの間からこういうBROADCASTをした人があった。
で、窓を締めたきりにした船室で、寝苦しい一夜を明かす。
それでも、朝になってうとうと[#「うとうと」に傍点]としたらしい。
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わ・わ・わっ!
わ・わ・わっ!
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