ト買うのではない。要するに「|手作り《ハンド・メイド》」だから高値《たか》い、そして高値が故にのみ手が出るのである。こうなると、日本におけるわれわれの生活なんか、じつに贅沢を極めていて、ざっと身辺を見廻すところ、およそ「|手づくり《ハンド・メイド》」でないものはないようだ。考えて見ると、西洋では、ことに亜米利加《アメリカ》あたりでは、人間の工賃が高くて機械による生産費のほうがずっ[#「ずっ」に傍点]と安く上るから、何でもかんでも劃一的に機械で多量生産してしまうんだが、機械では巧緻《こうち》な味が出ないとあって、このとおり手工芸品が大歓迎である。言わばこの現象は、近代資本主義制度の世の中にあって過去の産業封建時代の遺物を愛するといった、変態的|骨董《こっとう》趣味の一つのあらわれに過ぎないかも知れないが、一体人には、よかれ悪《あし》かれ、自分にないものをあこがれ求める共通性があるもので、ちょうど同じことが「あちら」と日本の生活様式の相違についても言えると思う。つまり、むこうでは、粗抹な荷箱が一つ十円以上もするほど、木材がすくなく、したがって値段が高いところへ持って来て、石や鉄の建築材料はふんだん[#「ふんだん」に傍点]にあるから、そこで、ああいう形の文明が発達したわけで、日本ではちょっとした物がすべて「手づくりの木製である」と教えてやると、「何という高級な!」なんかと心から恐れ入っている。ところが、その本国の日本には、何からかに[#「かに」に傍点]まで石や鉄で作らなければ文明と思わず、しかも機械製でなければ承知しないで、それをもって西洋風だと信じている感ちがいの亜流者が多いから笑わせる。これはとんでもない穿《は》き違いだ。ほんとに西洋流で往こうと言うなら、すべからく「|手作り《ハンド・メイド》」を感謝し、木製物を尊び、そうして日本の生活の手近ないたるところにその極致を発見して、大いに得々とすべきである。これは、私のよく謂う「西洋を知り抜いて東洋へ帰る心」に、形だけにしろ、一脈通ずるものがあるのである。
 ところで、理窟は第二に、帰国の日が近づいたのに書籍を積み出す方便がなくてすっかり困ってしまった。仮りに一個十円でもいいとしたところで、十箱も作らせると百円である。おまけにどう急がせても間に合いっこないのだ。さんざん考えた末、これは新たに造らせるからこんなに高価《たか》
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