ネル》!』
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モハメッドのために!
モハメッドのために!
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 と祈るように私語《ささや》くのは、盲目の老婆の手を引いた、ベズイン族の少女である。両頬に三本細く文身《いれずみ》してるのが、青い鬚のように見える。「モハメッドのために」幾らかくれと言うのだ。乞食には違いないが、それは表面で、内密には、即座に物好きな旅行者の求めに応ずる。道理で、乞食のくせに、ここらの住民のどれよりも小ざっぱりした服装をして、顔には白粉のようなものを斑《まだ》らに叩いていた。
 この辺一帯がその町なのである。
 よろめいて立つ塔婆《パゴダ》の並列。家々の窓から覗く土耳古宮廷妾《オダリスクス》と王公側室《サルティナス》と回教女《ファティマ》。何と貧しい淫楽の巷であろう! 植民地兵営の喫煙室みたいな前庭。その奥に、薔薇色の壁紙に広告用の掛け暦と、罅《ひび》の入った鏡とを飾った客間。全然生の興味を欠いた女たちの顔。洞穴のようにうつろな胸、睫毛《まつげ》のない眼、汚点だらけの肌、派手なKIMONO、羅物《うすもの》の下着《シミイズ》、前だけ隠すための無花果《いちじく》の葉の形の小エプロン――そんなものが瞥見される。
 彼女らは先を争って戸口から走り出てくる。キモノが宙に飛んで、皮膚の大部分に直接陽が当る。が、慣れた光景とみえて、誰も何らの注意を払おうとしない。ある一軒の家からは、純粋のあらびや女がふたり、瘠《や》せこけた両腕を伸ばして何か盛んに我鳴り立てた。英語の解る御者に訊くと、土地特有の生ぬるいビイルを一杯ずつ飲ませろと言ったのだそうだ。
 この恐るべきポウト・サイドの後宮《ハレム》をPASHAのごとく一順して、私たちは港へ帰った。
 あらゆる天候によごれたSS・H丸の姿が何と有難く見えたことよ!
 午後一時、石炭補充を終って出帆。
 がら・がら・がら・がら――錨を上げる。
 これから、今夜|晩《おそ》くまでスエズ運河がつづく。
 右舷《スタボウド》の岸を船とならんで、白く塗ったカイロ行きの汽車が、沙漠と熱帯植物を背景にことこと這っていた。

     6

 紅海の或る日。
 蒸し殺されるように暑い。これでも今日は幾分涼しいほうである。
 速力。十三|哩《マイル》半。
 南三八度E。
 北風。軽風2。
 温度。大気八四度。
 海水度。八一度。
 晴
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