ない。
 裸足《はだし》の少年靴みがき団を筆頭に、花売り娘、燐寸《マッチ》売子、いかさま賽《さい》の行商人、魔窟の客引き――そう言えば、このポウト・サイドには、土人区域の市場を抜けて回教堂《モスク》の裏へ出ると、白昼、数時間寄港の船員や旅行者を相手にする、陰惨な点で世界的に有名な一廓がある。波止場で馬車に乗ってただ黙って笑えば、馬車屋のほうで心得ていてそこへ案内するにきまってるほどの名所である。
 では、レディ達をルウ・ドュ・コマルス街の珈琲《コーヒー》店の椅子へ一時預けにしておいて、出帆前にちょっとそのポウト・サイドの奥の奥と言うのを覗いて来るとしようか。
 馬車で行こう。
 がら・がら・がら・がら――焼けた敷石に車輪を鳴らして、僕らはいま、あらびっくで何々|街《シアリ》―― Sharieh ――と呼ばれる大通りを走らせている。
 両側は、マホメッドの人種市だ。
 店という店から人が飛び出して声をかける。
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“Thisway monsieur colonel !”
“Here you are,anata―anata !”
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 片眼を残して顔半分|潰瘍《かいよう》し去った埃及《エジプト》人が、何かを売りつけようとして馬車を離れない。が、これでまだ動いてるからいいようなものの、もし、そこのキャフェの張出《タレス》にでも腰を下ろして、これでまあ行商人達を撃退してよかったなどとほっ[#「ほっ」に傍点]と安心していようものなら、たちまち蠅のような彼らに包囲されて靴磨きの子供は足へ取りつき、春画売りは恐るべき色眼を使って袖の陰から絵を覗かせ、宝石屋は君の鼻先へ首飾りをぶら下げ――そうして君は、君はとうとう癇癪を起して靴みがきの耳を引っ張り、春画売りを大声叱咤し、宝石屋を殴り飛ばして、あわれ逮捕の憂眼《うきめ》を見ることとなるであろう。
 通行の群集はまるで世界中の敗残者から成り立っている。希臘《ギリシャ》人・東邦人《レヴァンテン》・あらぶ・埃及《エジプト》人・とるこ人・シリヤ人・回教を信じようとしない「西方から来た白い悪魔」たち・遊牧の貴族べずいん人。その黒くうるんだ大きな瞳・鼻筋から両眉のあいだへ円く巻いて渡した銅の針金・房付帽《タアブウシュ》・長袖下衣《キャフタン》・薄物・布頭巾《タアバン》・冠物附外衣《プルヌウス》・頬を線状
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